2ー1
緩いが延々と続く住宅街の坂道を福松は自転車で登っている。その先に目指す映画撮影所があるからだ。
四月の陽気は歩く分には丁度いいかも知れないが、自転車を漕いでいる身には少々暑い。しかし今日に限ってはそよ風が吹いているので心地よさの方が勝っている。その上今通っている道には所々に色とりどりの花が咲いており春らしさをより感じられて健やかな気分にもなれた。
京都市は太秦の少し南に位置しているこの辺りは昔ながらの家と新興住宅が混在している。小中学校や幼稚園が点在しているので花壇や鉢植えが多く、自然と花を見れる機会が多くなるのだ。
この周辺は住所の上では梅津、もしくは嵯峨野と言った。
けれどそこを行く福松は町名などは、まだあやふやにしか覚えていなかった。もちろんそれには理由がある。何故ならば彼が京都に在を移し終えたのは五日前のこと。荷ほどきや新生活の準備やらに時間を取られ周囲の散策はほとんどできていないのだ。
三カ月前にドリさんから梅藤映画撮影所の秘密を聞かされた福松は撮影所を出た後になってようやく自分の身に起こった事に興奮を覚えた。予定していた小旅行程度の観光も心ここにあらずのまま終わり、気が付いたら仙台に戻っていたような有様だった。それから合格通知が届くまでの数日は京都での出来事が夢なのか現実なのかが大分ぼんやりとしていた。
ともあれ晴れて合格の通知を知らされた福松は期待に胸膨らませて引っ越しの準備を済ませ数日前に京都へやってきた。そして何を隠そう、今日がそのスクールの授業初日なのである。
間借りしているアパートを出て梅津の町を自転車で北上していた福松は、大映通りに出ると西へ曲がり帷子ノ辻駅の方へ進んだ。そして灰色のブロック塀をなぞるように進むと目当ての撮影所の入り口が見えた。
つい先日に郵送されてきた入館証をポケットから出すと、守衛に挨拶をしながらそれを見せた。
「お早うございます」
福松は三カ月前の記憶を引き出しながら入館の手続きをする。あの時は来客用の書類に名前を書いていたが、今回はその隣に置いてあった『時代劇スクール生』と書かれた紙から自分の氏名を探し、その横にチェックマークを入れた。それだけの事なのだが、福松は確かな一歩を踏み出したような手ごたえを感じて嬉しくなった。
その時、チェックを入れた紙の横に更に別のリストが置いてある事に気が付く。そこには『姫、担保で候 村中組』と書かれていた。それはつまり、今日この撮影所で正しく撮影をしているという事の証明だった。
ここからは見えないが建物の奥にあるオープンセットでは着々と撮影の支度が進んでいるのかも知れない。舞台演劇が主戦場だった福松はカメラの前で芝居をしたことは二度しかない。だからこそ、早くそこに立てるだけの技術や度胸を身につけたかった。
撮影所は入ってすぐに四階建ての大きな建物が目に入る。その一階には撮影所のスケジュールやその他の事務作業を行う事務所があり、二階から上は支度部屋や編集室があったりするらしい。建物は西側の一階が大きくくり抜かれ、ある種トンネルのようになっている。奥には大道具の倉庫や時代劇用のオープンセットなどがあるのだが、ここからだとスタジオの裏の壁しか見えない。福松は三カ月前にドリさん達に率いられて奥の化生部屋に行った時の事を思い出していた。
その時、事務所から伊佐美さんが出てきてこちらに歩いてくる事に気が付いた。越してきたばかりの福松にとって京都での数少ない顔見知りだ。
「おはようございます、福松さん」
「伊佐美さん。今日からよろしくお願いします」
「いよいよ今日からですね」
明るく、そして門出をお祝いするような声だった。
伊佐美さんは事業部と言う部署に所属しており、撮影の進行スケジュールや撮影地の許可、弁当の手配、エキストラの管理などなど撮影現場以外で必要な仕事を担っている。いわゆる縁の下の力持ちポジションという奴だ。これもドリさんからちょとりと聞かされていた話だった。
今日からお世話になる時代劇スクールも伊佐美さんが担当しており、書類での手続きから面接に至るまで全部の面倒を見てもらっている。直接会うのはこれで二回目だが、まるで昔からの間柄のようにも思えた。こういう仕事をしているからそんな雰囲気を纏えるのか、それともそういう性質を持っている人だからこの仕事を選んだのか。福松には知る由もないが、右も左もわかっていない彼にとっては京都で一番頼りになる人物であることには間違いない。
「まさか福松さんが妖怪が見えるなんて思ってませんでしたよ」
「僕も、まさかですよ。そう言えば伊佐美さんは見えない人なんですか?」
「そうなのよね。からっきしダメみたいで…アレから化生部屋はお祭り騒ぎだったらしいですよ。ドリさんが言ってました」
「ははは…」
福松は乾いた笑い声を出す。
「授業が終わったら化生部屋に寄ってくださいね」
「はい。そのつもりです」
「それはそうと授業で使う着物とか履物とかは大丈夫ですか?」
「ばっちりですよ」
福松は自転車の前かごに入っていた風呂敷包みを指さして答えた。
時代劇の所作を勉強するので授業は原則として着物を身につけなければならない。入学の募集要項にも最低限の着付ができることが明記されているほどだ。福松は故あって高校生の頃から着物を着る機会が多かった。なのでその点においては尻ごみをすることはない。
溌剌と答える福松の様子がおかしかったのか、伊佐美はくすりと笑った。
読んで頂きありがとうございます。
感想、レビュー、評価、ブックマークなどしてもらえると嬉しいです!