6ー1
そして翌日。福松は朝の四時に目を覚ました。
カーテンを開けると東の空が微かに明るくのが見えた。彼の家から撮影所までは自転車で15分程度の道のりだ。持ち物もメールで確認したものを昨晩から用意していたので問題はない。本来であればあと一時間は布団の中に入っていられる余裕があった。
つまり早起きしたのは不安と期待の現れだ。
パンとインスタントスープで朝食を済ませたし、トイレも洗顔も髭剃りもばっちりだ。それでも何かやり残したことだとか、忘れ物があるような妙な焦燥感に襲われている。結局のところ福松は5時前には家を出て、撮影所に向かうことにしたのだった。
流石に一時間前には誰もいないだろうし、守衛さんも通してはくれないと思っていた。だが、蓋を開けてみると守衛さんは大した疑問も持つことなく、楽屋とメイクの入り時間とを確認しただけで所内に入れてくれた。幸いにも楽屋は時代劇塾の授業のときと同じプレハブの小屋だったので、福松は気兼ねなく荷物を置いた。
しかし時間までくつろぐ気には全くなれなかったので、何はなくとも浴衣に着替えた。
時代劇の役者は支度をするときに着物か、もしくは最低でも前開きの服を着なければならない。そうしないと、かつらや羽二重をつけた後にTシャツなどが脱げなくなってしまうからだ。
そうして着替え終えた福松は手持ち無沙汰を解消するために化生部屋に顔を出すことにした。が、すぐにその選択を後悔した。朝焼けの明るさが出ているとは言え、撮影所のオープンセットは薄暗い。しかも時代劇用のセットであるから妙に古めかしく、不気味な雰囲気をこれでもかと漂わせていた。しかも福松はあろうことか妖怪のいる部屋に行こうとしているのだ。
化生部屋に行くにはセットの橋を渡らなければならない。その橋の板が歩く度にギシギシと不安を駆り立てるような返事をしてくる。そんな心持ちになって辿り着いた化生部屋はより一層不気味に感じた。
「お、お早うございます…」
福松は恐る恐る中に挨拶を飛ばす。しかし返事はない。
しーん、という静寂だけが耳に響いてくるばかりだ。
「誰もいない…?」
ひょっとしたら朝のこの時間帯は使われていないかも知れないと思った。そうして開けた戸を閉めて振り返った時、
「「「おはよう」」」
と、声をかけられた。すると福松はご期待に沿って悲鳴を返事とした。
「ぎゃああああっっ!!」
「あっはっは!」
朝の撮影所に妖怪達の愉快な笑い声がこだました。反面、福松は心臓が飛び出しそうなくらい驚き、過呼吸にも似た息づかいになって沸騰したように熱くなった血液の熱を冷ましていた。次いで呂律の回っていない舌で必死の抗議をする。
「な、何を、え、あいさつ、え?」
「ごめんごめん。妖怪の住処にのこのこやってくる人間のお前さんを見てたら、みんなで悪い考えが浮かんでねぇ」
結がテヘペロのお手本のような顔をして謝ってくる。福松は何か言いたかったが、今は呼吸を整える方が先決だった。
そして真砂子がそもそもの事を聞いてきた。
「というか、何してんだい? 随分と早いじゃないか」
「あぁ、はい。初の撮影現場だったので気持ちが急いちゃって」
「他には誰かいたかい?」
「いえ。一番乗りでしたよ」
「ほほう。関心関心」
「え?」
「今は滅多にそんな奴はいないけど、昔は支度入りの一時間前くらいには来るのが普通だったよ」
「そう、なんですか?」
「ああ。寝起きすぐじゃ顔だって腫れぼったいだろ。それに夏場はここにくるだけで汗が出るし、冬場は寒さで血色が悪くなる。どっちも化粧のノリとか羽二重が付けにくかったりしちまう。だから早めに来ては顔を整えるのさ。昔は冷暖房の質が悪いから尚更ね」
「へえ~」
そんなつもりは毛頭なかった福松は素直に感嘆の息を漏らした。同時にそこまで気を使わなければならないのかと、自分の認識の甘さを恥じた。尤も知らぬままに過ごした後、誰かに怒られたり笑われたりしながら指摘されるよりは、よっぽどマシだと思った。
福松をからかって一先ず満足した妖怪達はぞろぞろと化生部屋の中へと消えていく。
すると真砂子さんが、その一団からひょいと抜け出して一緒に事務所のある本館に行こうと誘ってきた。
「ちょいとおいでな。よく分かっていないだろうから教えておいてあげよう」
福松は真砂子に連れられるがままに付いていくと、やがて本館の脇にある掲示板の前に辿り着いた。そこには撮影所で製作した映画やドラマの宣伝ポスターや撮影のために京都を訪れたスター俳優のインタビュー記事の切り抜きなどが掲示されている他、所内の撮影スケジュールや直近の現場の香盤表が貼られていた。
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