婚約破棄
卒業を祝うパーティーが学園の講堂で行われている時にそれは起こった。
今年はこの国の王子であるマイラルが卒業するため盛大に行われていた。
「アグネ・クライマ・ティストン、貴様との婚約を破棄する」
王子という名に相応しく眉目秀麗な男性マイラルが壇上から堂々と言葉を放った。その隣には可憐という言葉がお似合いの女性ヒィミナが不安そうな表情で立っていた。
「仰せの通りに」
これまた美女という言葉がピッタリな女性アグネが壇上のすぐ下で美しいカーテシーを見せた。そしてくるりと背を向けると出入口に向かって足を踏み出そうとした。
「アグネ、何処に行く」
掛けられたアグネは振り向くと姿勢を正し、不思議そうに首を傾げた。
「父に報告に参ります。王家と家の契約ですので父が手続きをしなければなりません」
「そう言って父上に泣きつき、婚約の続行を願うのだろう」
マイラルとヒィミナの後ろに控えていた男性キラキ、アグネの兄が嘲りの声をかける。キラキの隣にいる男性シラスも侮蔑の視線をアグネに向けていた。
「なぜそのようなことを? お兄様からも報告されますのでしょう?」
そんな無意味なことをして何になるのかとアグネは形の良い眉を寄せる。
「待て、アグネ」
マイラルが再び背を向けたアグネをまた呼び止めた。アグネは口元を扇で隠して小さな息を吐いて振り返った。
「貴様はヒィミナを虐げていたであろう。謝罪はないのか!」
「そのようなことはしておりません」
学園でアグネが元平民のヒィミナを虐げていると噂があった。その噂を鵜呑みにしたのかとアグネが扇の下でまた小さく息を吐く。
「言わせていただくなら、貴族令嬢としてのご忠告をさせていただいたまで」
アグネの言葉が気に入らないのか、マイラルとキラキ、シラスの目が吊り上がっていく。
「平民だからとヒィミナを虐げる者を私の隣に置くわけにはいかない」
「かしこまりました。それも父に伝えます。私に付けられた護衛により私の行動は父が知っております。ヒィミナ様のことについては父から報告させていただきます」
再び美しいカーテシーを見せ三度背を向けようとしたアグネをまたもやマイラルたちは引き留める。
「そんなもの。何とでも改竄できよう」
「父上もお前には甘いからな」
アグネは壇上にいる者たちにも分かるように息を吐くとゆっくり口を開いた。
「確かに八年間もございました婚約期間でマイラル殿下に信頼していただけなかった私ではその隣に立つことは無理でございましょう。お兄さまも十五年間もありましたのに家族としての信頼も築けなかったようで、とても残念でございます」
凛とそう言うとアグネはやっと出入口へ足を進めた。こんな茶番にもう付き合ってはいられなかった。
「待て、ヒィミナ嬢に謝罪しろとマイラル殿下が仰っただろ」
「!! やめろ! シラス!!」
キラキの制止も聞かず、シラスの風魔法がアグネを襲った。アグネの華奢な体は枯れ葉の様に風に舞い、壁側に飾ってあった両手で剣を掲げている甲冑に激突した。
「…、なぜ…、魔法を使わなかった?」
シラスは呆然とした。アグネの魔法はシラスより強い。それなりに魔力を込めたが、こんな風魔法などアグネなら簡単に消せるはずだった。
「一昨日、アグネは結界石に魔力を注ぎ込んだ。お前のあの魔法を消すだけの魔力がまだ回復していない」
キラキが言い捨てて壇上を飛び降りていく。
結界に魔力を注いだアグネにはシラスの魔法を被害なく消せるだけの魔力が回復していない。今ある魔力でシラスの魔法を跳ね返したのなら、この会場にそれなり被害が出た。それほどの魔力があの魔法には籠っていた。被害を出さぬためにアグネがシラスの魔法をその身で受け止めるしかなかった。
「お嬢様、しっかりしてください」
警備の者たちによって、アグネの体は甲冑の下から運び出されていた。その脇腹から真っ赤な血が止まることなく流れ出ている。今ある魔力で身体強化魔法はかけていただろうに酷い怪我だった。
「誰か強い治癒魔法を」
この侍女は弱い治癒魔法しか使えない。甲冑が持っていた剣はアグネの脇腹を切り裂いたようだ。
「ヒィミナ嬢、君の治癒魔法なら」
キラキは壇上で呆然としているヒィミナを呼んだ。このまま出血が止まらなければ、アグネが死んでしまう。
治癒魔法を含めた強い光魔法を使えるからヒィミナは貴族の養子となり学園に編入してきた。彼女なら、この傷でも治せるはすだった。
「え、何故、私が」
ヒィミナはマイラルにしがみついて首を横に振っていた。その姿にキラキは苛立った。早くしなければ手遅れになってしまう。
「君は強い治癒魔法を使えるだろう」
マイラルもアグネの様子を見ようと動こうとするが、しがみついているヒィミナを引き離すこともできずその場を動けずにいた。
「で、でも…、その人は私を苛めて…」
「だからって、死にそうになっている者を君は見捨てるのか?」
キラキの叫びに猶予がないと感じたマイラルは優しくヒィミナに行こうと声をかけるがヒィミナは一歩も動こうとせず、うるんだ目で首を横に振るだけだ。
「くそっ」
キラキが弱いながらも治癒魔法をアグネにかけようとすると、その肩に手を置く令嬢がいた。
「キラキ様、お退きになって」
キラキの婚約者のラーマであった。アグネの傷に白魚のような手を向ける。淡い光が傷口に吸い込まれていく。ラーマの治癒魔法はキラキより強い。キラキもその横から手をかざし治療魔法をかけていく。
「わたくしはあなたの婚約者になって五年、それなりの関係を築けていたと思っておりましたが、砂の城でしたわ」
それでもアグネの出血は止まらない。血溜りは拡がっていく。
「ヒィミナが学園に編入してきて一年。とても仲の良い兄妹でいらしたのに一年も関わっていない方の方を信頼されるなんて…。わたくしとの五年間などほとんど無きに等しいですわね」
その言葉にキラキは目を見開いた。政略の相手だったが、それなりの信頼関係をお互い築いてきたはずだった。だが、ヒィミナとラーマ、どちらを取ると言われるとヒィミナを取ってしまう。それが当たり前だと思えるのに正常だと思えなかった。
「養護教師はまだか?」
誰かが学園の養護教師を呼びに行っているはずだ。
血の気がなくなっていくアグネの顔色にキラキの顔色も白くなっていく。
「どうだ?」
マイラルがやっとアグネの元に来た。出来た血溜りに眉を寄せる。ここまで酷いと思ってもみなかった。
王子として確認する必要があると言ってヒィミナを引き剥がし、彼女はまだ呆然としているシラスに預けてきた。
「マイラル様、わ、私はおかしいのでしょうか? とても可愛がっていた妹より知り合って一年も経たない者が正しいと思えるのは」
キラキがマイラルに訴える。
「アグネは、妹は強い魔力を持っていたため厳しく育てられました。その魔力で人を傷つけないように、国を支える者として人道に外れることをしないように、と。それを間近で見ていたはずなのに」
脂汗を流しながら訴えてくるキラキにマイラルもどう答えて良いか分からない。マイラルもアグネと王城で共に国を統治する者として肩を並べて学んできた。八年間、決して短い時間ではない。それまでに二人で作り上げた信頼はこう簡単に崩れるほど脆かったのか。
マイラルは自分が壊したのにそうだとは思えなく、いや思いたくなかった。
お読みいただき、ありがとうございます
結界石に魔力を注ぐのは普通の魔力持ちなら年に一回当番が回ってきます。アグネは魔力が多いので年二~三回行っていました。
「喧嘩だぞ!」
「早く警備の者を!」
酒場で男たちが睨み合っていた。酒が入り気が大きくなった者たちがツマミの食べた量で言い合いになり、一発触発の雰囲気まで発展した。
「はーい、落ち着いて、落ち着いて」
警備の制服を着た者が男たちの肩を軽く叩いていく。不思議なことにそれだけで男たちは憑き物が落ちた顔をして倒れた椅子を直し席に着いていく。
「仲良く呑める?」
警備の者の言葉に男たちは大人しく頷いた。
「じゃ、楽しんでな」
警備の者は颯爽とその場を後にした。
「隊長、明日から四日間いませんので」
「あっ?」
隊長と呼ばれた者は慌ててペラペラと書類を捲る。
「結界石の当番かー」
「ええ、使い物にならないんで家で大人しくしてます」
そう言ったのは酒場で男たちを宥めた者だった。
「お前がいないのは痛いが、当番だから仕方がないか」
隊長と呼ばれた男は明日からの四日間は楽が出来んなーと唸っていた。