第六話:地域振興部
明朝、県立柳仙谷高等学校は朝露に包まれていた。両側に構えた石柱の校門の奥には、石垣に囲まれた記念碑と自動車の駐車場があり、体育館と三階建ての本校舎が別々に並んでいる。
体育館からはシューズを擦る音が聞こえ、グラウンドからは朝練習に勤しむ運動部の声が響く。本校舎の裏にある二階建ての部室棟の一部に明かりが灯り、文化部の方も活動中のようだ。
全校生徒数は三百未満の高校で、文化部は少人数の集まりが多く、運動部も試合のできる最低限度より、少し多い程度の規模でやっている。
賑やかな朝の喧噪に包まれつつ、信也はある部室へ行くため、部室棟の中へ入り込んでいた。
「確か、この辺りだったはずだけど……」
登校早々に職員室の赴いた信也は、教師から地域振興部の部室を記した紙を渡してもらい、部室棟一階の廊下を歩いていた。廊下を沿うように並んだ教室の表札に目を動かしつつ、地域振興部の文字を探す。
「あった、あった。ここだ」
幾らかの空き教室を通り過ぎた後、信也はようやく目的の場所に辿り着く。
明かりの漏れ出る部室の扉に手を掛け、信也は朝の冷たい空気を肺へ深く吸い込んだ。地域振興部のメンバーは紗希以外に二人いるという。
教師によれば、生徒減少に合わせて部活動発足条件の最低人数は三人となっており、地域振興部は今年の始めに出来たばかりとのこと。しかし、夢見紗希は一年の頃から勧誘活動をしていたらしく、彼女の根気良さには信也も脱帽しそうになった。
「よし、失礼します」
信也は勢いよく引き戸を開け放つが、室内の様子を見て拍子抜けする。華姫祭りや地元特産物に関する資料、それをまとめたファイルを並べた棚があるのは当然だが、しかし、部室の引っ付けられた長机には誰も座っておらず、右奥のパソコンデスクで紗希一人が、悲しげにキーボードを打っている。
他のメンバーはどうしたのだろうか、信也は首を傾げて入室した。紗希一人の方が信也は気楽で良いが、やはり疑念は拭えない。
「ああ、日比野君。昨日はどうも、答えを決めてきてくれた?」
開いたノートパソコンの画面から目を離し、紗希が喜々として振り向く。部活動の本番が夕刻とはいえ、部員を揃えずに紗希が一人で作業をするのは、如何なものだろう。
信也は眉根を窄めながら、長机のパイプ椅子を引いて腰を下ろす。
「少し待ってね、もう終わるから」
タイピングに区切りをつけ、パソコンデスクから紗希が立ち上がる。
彼女は部活動の備品を置いた棚から一枚のプリントと取り出すと、長机の上まで運び信也の正面のパイプ椅子に座った。紗希の真っ直ぐな瞳に見据えられ、思わず信也は背筋を伸ばしてしまう。
まるで事情聴取されているかのようだ。紗希の真剣さに空気は張りつめ、信也は生唾を飲み込む。気負いするくらいには、彼女も部活動に賭けているのだろう。あるいは紗希自身が、信也の答えを聞くことに躊躇があるふうに、恐れを感じているだけかもしれない。
「それで、日比野君はどうすることにしたの?」
平静を装う紗希の手が震えている、誰だって断られるのは嫌だろう。一年の頃から部員を募集していた彼女だ、何度も拒否されて苦汁を飲んできたに違いない。
けれど、信也は同情することはなく、自分の意志だけを伝えることにした。
「うん、紗希に協力してみることにしたよ」
何時かの祭りを過去のものにしないために、信也は紗希へ頷く。姉が背中を押してくれたのもあるが、たとえ祭り復活が失敗しても、決して信也が悔やむことはないと思う。これが自分の決断だったからだ。
「そう、よかった。早速、部活動申し込みの説明をするね」
頬を緩めた紗希が、信也に配ったプリントは、入部届のようだった。が、見本の掲示されたのにも関わらず、信也は全容を把握できない。それも当然だった、咲希に差し出されたプリントが白紙なのだから。
「あのさ、紗希。プリントの裏表紙を見せられても、真っ白なだけなんだけど」
「えっ? わっ、ごめん。こ、こっちが表ね。さぁどうぞ、一通り説明するから」
赤面した紗希が慌てふためき、プリントをひっくり返す。やはり夢見紗希という少女は、少しヘマをする癖がある。可愛いな、なんて思いつつ、信也は愛想笑いを作り、頬を人差し指で掻いていた。
「ねぇ、日比野君。私の話、聞いてくれてる?」
「ああ、ごめんごめん。ちゃんと聞いてるから、安心して」
「日比野君、少し惚けた所があるから心配ね。しっかりしてよ?」
「あっ、それを夢見さんが言っちゃうんだ……」
「なっ、何よ! 私はただ、ちょっとミスするのが多いだけだから!」
紗希は入部届の各項目を指でなぞり、腹いせとばかりに早口で説明していく。
とはいえ、所詮は部活動の入部届だ。難しい項目などはなく、プリントの注意書きと紗希の補足説明程度で事足り、手間なのは部活動の担当顧問への提出くらいか。
信也は紗希からプリントを受け取り、しわができないように鞄へ入れ込んだ。
「ところでさ、さっきは何をしてたの?」
信也がパソコンデスクに置かれたノートパソコンを指差す。ノートパソコンは窓から漏れる日光を僅かに避け、部室右奥の壁際で稼働音を上げていた。
「えっと、学校ホームページの更新よ。この部活の日課なの、見てみる?」
「お願いしようかな、僕も学校のホームページは気になるし」
立ち上がった紗希がノートパソコンを傾け、彼女に追従した信也がノートパソコンの画面を覗き込む。彼はデスクの横に古い缶バッチを見流し、ホームページのトップ画面に注目すると、そこには『県立柳千谷高等学校』と題し、青空の下にそびえる本校舎が映し出されていた。
それ程規模の大きな高校ではないが、伝統を感じさせる凛々しい佇まいだ。学校ホームページには部活動の様子や学校の取り組み、年間行事などの説明が各項に振り分けられている。
一方の紗希は『地域とのつながり』という項へマウスを動かし、そこをクリックした。柳仙谷町の風習や特産品のインタビュー記事、そして解説文の入った町民の写真が並ぶページのようだった。
紗希達、地域振興部の活動記録だろう。地道な取材に信也は敬服するが、肝心な部分の間違いは指摘すべきかもしれない。
「ねぇ、夢見さん。柳仙谷の『千』が間違ってるんだけど、これでいいの?」
「嘘、ホントだ! まさか、立ち上げた当初から間違ってたってこと!?」
紗希がパソコンの画面を食い入るように眺め、頬をみるみる紅潮させていく。これは恥ずかしい、全国のサイト閲覧者に自分の間違いを曝していたことになってしまう。
信也は紗希の心中を察し、苦笑いを浮かべて一言も発しなかった。
「すぐ直すから、日比野君は棚の資料でも見てて……」
紗希の背中が縮こまり、覇気のないタイピングが開始される。
今回ばかりは紗希にも強がりが無く、自らの失態に酷く精神的な打撃を被ったようだ。信也は再起不能に陥った紗希を見兼ね、棚の資料をまさぐり始める。
しばらくして、信也は探っていたファイル類の中に風変わりな代物を発見する。写真のとじたアルバムだ、紗希の私物かもしれない。
見てもいいのだろうか、と心配はしたものの、資料として置かれているのだろうと解釈し、信也はアルバムのページをめくり、少女が辿った軌跡の一部を知る。
商店街の大判焼き屋で友人達と買い食いをしている様子や、秋祭りに行われていた里神楽を見物している風景など、そこには幼少時代の紗希の思い出が詰まっていた。
その中の一枚に、信也は思わず目を奪われてしまう。お団子頭の少女と短い茶髪の少年が、夕暮れの公園で隣り合う写真だ。それと寸分違わない写真が、信也の持つアルバムにも貼り付けられている。
「この写真はもしかして……?」
遠い日の夕暮れ時、少女達と過ごした日々の記憶が信也の脳裏を掠める。信也は震える手でアルバムを握り締め、タイピングする紗希を見る。
彼女があの時の少女なのだろうか、思い出の中に眠る少女の面影が紗希の顔と重なった。
「どうしたの、日比野君?」
顏を上げた紗希が信也の傍に寄り、アルバムの中身を覗き込む。信也は瞼を大きく開きながら写真を指差すと、紗希に写真の解説を求める。
「ああ、これ。秋祭りの資料として私が家から持ってきたものよ。懐かしいなぁ」
「そうなんだ、ちなみに何時くらいの物だったりする?」
「最後の秋祭りがあった年だから十年前くらいかな? その時の旅行者に仲のいい子ができて、一緒に記念撮影したものよ」
遠い瞳で昔を懐かしみながら、紗希は信也へ悲しげに微笑んだ――そこで一つ、信也は確信を得る。十年前の秋祭り旅行の日、信也が友達になった少女は夢見紗希である。
思いがけない再会に放心したまま、信也は事実を口から溢す。
「そのさ、この写真。実は僕の家にもあるんだ」
「ということは、日比野君があの時の……」
信也と紗希は見つめ合って硬直した。突然に判明した巡り合いに、彼の思考が追い付いていない。もう二度と会うことはないと思っていたのだから、自分で思う以上に、信也は衝撃を受けていたのだろう。
信也は紗希の姿をまじまじと見つめ、遅ればせながら驚愕の声を上げた。
「嘘……だよね、色々と成長しちゃってるし!」
「えっ!? ちょっと、日比野君! 今の、何処を見て言ったの!?」
「い、いや、違うよ! そっちは見てないから!」
「そっちってどこのことよ、完全に胸の方を見てなかった? せ、セクハラは困るし、それに成長したのは私だけではないでしょう!」
「そ、そりゃ、僕も身長くらいは伸びたけど、女の子程の違い――って、そうじゃないから! 本当だよ、信じて!」
胸の前を両手で抱きかかえて飛び退く紗希に、信也は両手のひらを突き出して左右に振る。ムッツリの自覚はあるし、男の性のようなものだから、勘弁してもらえないだろうか。
ついつい本音を漏らしてしまった信也は火消しに焦り、紗希は旧友に疑惑の眼差しを向けながら、二人は俯いて頬を染め合っていた。
やがて平静を取り戻し、二人は十年ぶりの再会を祝う。信也は喜びに打ち震え、紗希は取り繕った愛想笑いを浮かべ、自分達は口元を緩めるのだ。
「まさか、日比野君があの子だったなんてね」
「そうだね。なんか変な気分だ」
あはは、と頬を掻き、信也は全く気付かなかった自分を可笑しく思いつつ、紗希に合わせて照れ笑いする。重苦しかった部室の空気も表面上は柔和になり、信也は紗希に親近感を覚えた。
一方の紗希は「久しぶりなのだから」と改め、
「こんなこともあるのね。それなら、苗字は他人行儀かもしれない」
「一度は一緒に遊んだ身だもんね、下の名前でもいいかな」
「そうね――じゃあ、改めてよろしく、信也」
「こちらこそ、今回は卒業まで一緒だから あと一年半、よろしくね」
紗希が差し出した右手を信也の右手が掴む。再会を歓迎する握手だ、たった二日間という『出会い』と呼ぶには、あまりに短すぎる期間だったからこそ、互いに忘れていてもおかしくない月日は経った。
それでも、また面と向かって話せているのは、何かの巡り合わせだろう。
「信也、病弱って聞いていたけど、よく二年生に編入できたね」
「僕は病院で通信教育を受けてたからね。自宅にいる時間も結構あったし、たまに学校へも行ったしたから、成績自体は悪くなかったんだよ」
「そう、だから編入手続きも通ったのね」
「僕には勉強と読書以外、やることなかったからね」
背中向けに長机に手をついた紗希と、パイプ椅子に手を掛ける信也が談笑に花を咲かす。と、まさにその時だった。
「あのう、夢見先輩います? 先生に用事を頼まれたんですけど」
部室のドアがノックされ、小生意気でテンション低めな少女の声が響き、二人は懐かしの会話を切り上げる。