第四話:秋祭りを思う少女
夕刻、高く澄み渡った空に泳ぐ鱗雲は、日の入りを前に赤く燃えている。
三メートル程度の小さな坂道を登った先には、窓ガラスに夕日を映した低いコンクリートの建物があった。その手前、来客を迎えるための駐車場には数台の車両が止まっている。
学校の帰路、小路に囲まれた民家の密集地帯の一角にある役所へ、信也は学校指定の制服のまま赴く。
祭り復興に向けて活動しているという少女を、姉から紹介して貰う為である。
役所は大通りから逸れた路地街の中にあり、入り組んだ道路はまるで迷路のようだった。信也は首から青いネクタイを垂らし、息を荒げながら肩を上下に揺らす。
秋の半ばを迎え、肌寒くなってきたというのに、信也の額には汗が浮かぶ。緊張でもしているのだろうか、まったくもって情けない限りだ。
「やっと着いた。自分が帰るまでに来いとか、姉ちゃんは強引すぎるよ」
信也は学生鞄から携帯端末を取り出すと、液晶画面を覗き込み、現時刻を確認した。午後四時四七分、香奈絵が役場を退勤するのが五時一五分だから、無事に間に合ったようだ。
信也は左手で額の汗を拭い、役場の入り口前にある階段へと進む。
「姉ちゃん、仕事中に僕の相手なんかして大丈夫なのかな?」
バリアフリーの通路を脇目に、信也は手すりを掴んで階段を登る。車椅子時代はお世話になったなあ、などと考えつつ、自分の足で歩ける細やかな喜びを感じる。
一方の姉だが、彼女の大雑把な性格からして、弟の訪問に託けて退勤までの時間を潰す姿が、信也には克明に思い描けた。つまるところ、姉は仕事をさぼる理由に自分を使うつもりなのだ。
「なんか、姉ちゃんが僕を急がせた理由が分かった気がする」
一つため息を溢し、信也は役場の中へと踏み込む。役場の玄関先は左右への通路になっており、右側に行った先に受付がある。信也は姉の呼び出しを頼みに、役所の受付に向かった。受付は待合室も兼ねており、訪問者の座る三列程の長椅子が設置されていた。
窓口には来客の高齢者達が座り、役場の職員達と対面する。役場職員達はほとんどが普段着のような格好をしており、訪問して来た町民達との距離が近い印象だ。小さな町役場のため、職員と町民が顔見知りであることが多く、友人に相談しているような雰囲気さえある。
「あの、すいません。姉ちゃん――いえ、日比野香奈絵はいますか?」
「あれ、信也君じゃない。香奈絵に用事なの? だったら、少し待ててね」
受付の奥を覗き込んだ信也に、ウェーブをかけた黒髪セミロングの女性職員が振り返る。彼女は香奈絵の同僚、蒲原輪菜という。ブルゾンにクロップドパンツを合わせ、ブラウスを下に着ている平均的な体型の女性で、実は年下好きの噂が陰で囁かれている。
たれ目の優しげなお姉さんと言った風貌の女性だった。姉絡みでよくお世話になっている人だ。輪菜は信也に軽く手を挙げて立ち上り、香奈絵を呼びに行くため、パソコンの置かれた職員用の机の間を縫い、受付奥にある部屋へと消えていく。
話が早くて助かる。信也は輪菜に頭を下げると、彼女の行き先を眺めた。しかし、スムーズに行くのはここまで。
「おーい、香奈絵ー! 可愛い弟ちゃんが来てるぞぉ!」
と、至極気恥ずかしい声が受付の奥に響き、役所内には静かな笑いが漏れた。信也は頬を掻き、注目される恥ずかしさを耐え忍ぶ。方法はどうあれ、輪菜が気を遣って世話を焼いてくれているのだ。
彼女の好意に甘え、信也は姉を待つしかない。他の訪問者の迷惑にならないように、彼は待合室を移動して、受付の奥を眺めながら、近場の長椅子へ腰を下ろした。
その時のことだ。痛っ! と信也の隣から少女の悲鳴が上がる。
「あっ、ごめん。大丈夫?」
信也は慌てて飛び上がり、頭を下げて向き直ると、灰色の学生服に身を包み、青のミニスカートを穿いた少女がいた。どうやら手の甲を踏んでしまったらしい。
批判を覚悟し、信也が恐る恐る顔を上げていくと、栗色の髪をサイドアップさせた少女は顔をしかめ、ぶらぶらと右の手首を振っている。
同じ高校の女生徒のようだ。体型は年相応といった感じか、平均より少し細身くらいだろう。身長は信也より低く、一五〇後半くらいだと推定する。童顔で可愛げのある娘だが、信也が畏縮してしまったのは、罵詈雑言を覚悟したからである。気まずさに頬を掻き、信也は手を擦る少女の反応を待つ。
「あぁ、大丈夫だよ。私が手をついてたのも悪かったから」
少女は信也へ愛想笑いを浮かべ、「気にしないで」と手を振った。気さくで真面目そうな少女である、信也は反感を買わなかったことに、ひとまず胸を撫で下ろしておく。
「それより貴方、同じクラスの日々野君よね。こんな所で何しているの?」
「えっと、僕の姉ちゃんが役場で働いてるから。もしかして、君が夢見さん?」
「もしかしても何も、正真正銘の私が夢見紗希だけど、まさか覚えてくれてないの? もう一カ月近くは経つよね?」
「ご、ごめん! まだクラスの人の名前と顔が一致してないんだ」
あははは、と信也は空笑いをし、心底呆れ果てる夢見紗希への体裁を整えた。自分が柳仙谷町の高校に転校してきたのが、九月の初めだった。
既に一ヵ月は経過している。物覚えの悪い少年だと思われても仕方ないだろう、生徒数も少ないのだから尚のことだ。
「待たせたわね、信也――って、もう紗希ちゃんと会ってんじゃない」
受付の奥から近付いてきた香奈絵が、信也と紗希の顔を交互に見比べる。そして、「手間が省けてよかった」と安直に受け入れ、自分が説明する労力を使わずに済み、香奈絵は喜んでいた。
実にちゃっかりした姉である、弟の苦労など知らずにいい気なものだ。いつか仕返ししてやりたい。そんなこんなで、香奈絵の登場を機会に、紗希は信也の横に並び立って尋ねた。
「やっぱり、日比野君が香奈絵さんの紹介したい人なんですね」
「ウチの弟がね、秋祭りを再開したいらしいの。紗希ちゃん、色々教えてあげてくんない? 部活、大変でしょ? こき使ってくれていいわよ、私が保証する」
「はい。人手が欲しかったところなので、今回の申し出は嬉しかったです。もっとも、本人が望めばですが……」
香奈絵と紗希が頷き合い、信也の顔を凝視する。話の流れが読み取れない、どういう状況なのだろうか。信也は目をしばしばさせ、自分の顔を指差した。
しかし、香奈絵と紗希は首を縦に振るばかり、自分に選択権はないらしい。いや、回答を求められているのだから決定権はあるのだろうが、しかし早計だとも思える。
信也はまだ紗希が何をしているかさえ、聞かされていないというのに。
「いきなり話が見えないんだけど……どういうことなの?」
「それは貴方が、私に協力するかどうかの話よ」
「紗希ちゃんは高校の部活で地元のPRをしてんの。その部活の目標項目の一つに、秋祭りの復興があんのよ。信也、理解できた?」
香奈絵によれば、紗希は高校で地域振興部という部活動をやっていて、地元の特産物や銘柄などを、学校ホームページを使って全国に配信しているのだという。
農業の様子や商店街への取材を定期的に行い、旅館の娘として人脈を活かし、地元にある取引先の生産状況などもネットに挙げているらしい。
簡単にいえば、高校生が地元宣伝のようなことをする部活動だ。田舎の高校らしい取り組みともいえる。昨今の就職難で若者の帰省は難しいかもしれないが、せめて柳仙谷町の良さを多くの人に知ってもらいたいとのこと。その一環として、秋祭り再開を求める著名活動がある。
「つまり、祭り再開のために町民の協力を求めてるんだね」
「私一人では無理だけど、他の人の意見が加われば町も動くかもしれないから」
「紗希ちゃんの部活動なら、学校と役場の許可が下りてるわよ。やってみたら?」
紗希は信也を部活動へ招き、香奈絵は弟の肩を押す。しかし、「一緒にどう?」と紗希の差し出してきた手を、信也は握り返すことはできなかった。
肉親と同級生の勧誘を受けても、一歩踏み出すことができない。認めたくないが、信也は紗希の行動を無意味だと思ってしまったのだ。だからこそ、信也は愛想笑いを作り、
「ごめん、直ぐには答え出せないや。明日まで待ってもらっていい?」
そう言って、決断を引き延ばしてしまったのかもしれない。成功の期待と失敗の不安、両方の感情のせめぎ合いの中に、信也は取り残されていた。
「私も焦りはしないから、ゆっくり考えて日比野君」
「ごめんなさいね、紗希ちゃん。ウチの弟はあたしと違ってヘタレだから!」
「――痛っ! 姉ちゃん、何すんのさ!」
紗希が少し残念そうに肩を落とすと、香奈絵は信也の背後の移動し、後頭部に平手打ちをした。叩かれた信也は前のめりに倒れながら踏み止まるが、頭に響く姉からの強烈な打撃による痛みは、信也への叱咤が含まれている気がした。と、そこへ。中年の男性が事務所の奥から現れる。
「こらこら、日比野さん。君はいつまで無駄話をしてるんだ?」
「この声、幸野課長。うわぁ、めんどくさい」
「なんだね、上司に向かってその態度は! それに専門幹と呼べ、専門幹と!」
「いや、対して変わんないじゃないのよ。このハゲ親父」
「んん? 何か言ったかな?」
小言のうるさい中年男性の声に、香奈絵の顔が心底嫌そうに歪む。姉の苦手とする上司らしく、香奈絵は唇を噛んで邪見にした。
が、幸野課長はこれ見よがしに強気に出て、溜まった鬱憤を晴らすかのように、姉へとダメ出しをしていく。
「机の上をまた散らかして、君は書類の整理もロクにできないのか?」
「分かりました、今から整理し直します――ったく、そんなだからハゲんのよ」
「何か文句があるかね? まったく君は雑な所が多すぎるな、私が注意する手間を考えろ! 最近の若い娘はなっていないな」
スキンヘッドの中年男性は鼻を鳴らし、意気揚々と己の職務に戻っていく。香奈絵は上司の幸野課長へ舌打ちしつつ、信也と紗希へ苦笑いを返した。
「悪いわね、二人とも。課長がウザいから仕事に戻るわ」
「いえ、香奈絵さんが悪いわけではないので。お仕事頑張って下さい」
「姉ちゃんって、遠慮ないよね。もうすぐ退勤時間だし、僕は外で待ってるよ」
信也と紗希は仕事に戻る香奈絵の背中を見送る。受付内では自分の席に腰掛けたまま、蒲原輪菜が合掌していた。友人へせめてもの情けだろう。
香奈絵本人は散々に恨み言をぼやきながら、自分の机の上に散らばったファイルや、筆記用具の整理に勤しむ。香奈絵の職務再開により、窓口には信也と紗希だけが取り残された。
「ねぇ、日比野君。これから、貴方はお姉さんを待つのよね?」
「歩いて帰るのも面倒くさいしね。それがどうかしたの?」
「ええ。もし貴方に時間があるなら、少し付き合って貰いたくて。構わない?」
「問題ないよ。姉ちゃんも仕事に戻ったし、外に行こうか?」
そう言う紗希の誘いに乗ることにすると、信也は彼女と足並みを揃え、役場の外へ向かうこととなる。姉の帰りを待つ間に、信也が暇をすることはなくなりそうだ。
二人は役場内の廊下を戻り、出入り口の自動ドアを潜った。