第三話:帰路を歩く
国道沿いに立ち並ぶ軒並みが、日の入りとともに薄暗くなり始めていた。車道では帰宅を急ぐ自動車が行き交い、その脇に徒歩で進む仕事帰りの人々の姿がある。
都会程の大混雑はしていないが、それでも交通量は多くなっている時間帯だ。行く手を阻む電柱を躱し、個人宅を区画した石垣やコンクリートの壁を沿い、信也は神社からの帰宅路を歩く。
歩くこと三十分、信也は小さな町の中心街に戻って来ていた。
『十周年記念』、と銘打った道路沿いにある大きなスーパーマーケットへ目を遣ると、駐車場は夕食の買い出しに来た人々の車で溢れていた。
二車線道路を走る車両は風を切り、信也の鼻に排気ガスの異臭を届ける。
「うっ! 相変わらず、向こうに比べて車道と歩道の間隔が狭いな。主治医は『田舎の新鮮な空気に触れて』って言ってたけど、うしろ毒ガス吸ってるんじゃないかな?」
車道通り過ぎた車に文句を垂れつつ、信也は鼻を摘んで進む。自分の住んでいる一軒家は、町の中心街を少し離れた場所にある。もう十分程度で到着するだろう。自宅は柳仙谷町の役所に勤める姉が借りた平屋だ。町の若者離れが進み、貸し出し中の空き家も多いらしい。
姉は今年度の始めから柳仙谷町の役所に転勤になり、都市部で働く信也の両親に代わって、保護者代理をしてくれている。信也が候補地の中で柳仙谷町を選択したことには、その辺りの理由も含まれていた。病み上がりなのだ、姉の傍にいた方が両親も安心できるだろう。
しばらく歩き、十字路の交差点に差し掛かると、歩行者信号の赤が点灯したため、信也は足を止めた。横断歩道の先には一軒の平屋がある。
交通路を走る車両の風切り音を聞きながら、やっとのことで辿り着いた信也の住まいであった。
「少し遅くなったから、姉ちゃん心配してないといいけどな」
ふう、と信也はため息を一つ、歩行者信号が青に代わり、横断歩道を渡りながら自宅を見つめた。右側は雑草だらけの更地で、背面には田畑が広がっている。
住宅密集地の終わり、そう呼んで差支えない立地だ。本宅である平屋の隣には、錆びついたトタン造りの簡易的な車庫がある。車庫の中にはグレーの軽自動車が一台止まっていた。
姉の自家用車だ、夕食の買い出しを終えてきたのだろう。昼間と駐車している位置が僅かにずれいるともすれば、本日は日曜日であり、信也の姉がゆっくりと休日を過ごした証だった。
「遅れた理由、どうやって説明しよう」
車庫の前にある開ききったゲートを通り抜け、信也はアスファルトの庭を踏み締める。そして平屋の入り口の引き戸に手を掛け、ふと立ち止まった。
思い起こすのは、神社で謎の少女と出会った事だ。彼女との会話が信也の耳を離れない。祷と秋祭りの話をした影響かもしれないが、信也は祭りの廃止について、未だに蟠りを感じていた。
小さな町にしては有名な祭りだったはずなのだ、廃止にする理由があったのだろうか。その疑念について、役所勤めの姉ならば答えてくれるだろう。
「ただいま、姉ちゃん。ごめん、少し遅くなった」
信也は引き戸を開け放ち、自宅である平屋へと入り込む。幅一メートル、縦八〇センチ程の石張りの玄関で、右手には靴の収納家具や傘立が置かれている。
玄関口の段差を超えた先には、板の敷き詰められた廊下があり、壁際へ沿うように、部屋を仕切る障子が複数ヶ所に設けられていた。
その手前、タンクトップの上に薄いパーカを纏い、デニムパンツを着た茶髪ポニーテールの女性が、玄関から廊下への上り口に腰を掛け、靴を履いている。肉親の信也から見ても、恵まれた母性の塊を持つ美形でスタイルのよい姉である。
弟を心配し、玄関待機してくれていたのだろうか。実に優しい姉上様だ――とも言っていられず、信也は半歩ほど後退ってしまう。
「姉ちゃん、いきなり玄関で何してんのさ」
「信也を迎えに行こうとしてたに決まってんじゃない!」
「でも、僕は昼に神社へ行くっていったよね?」
「聞いたわよ。だから、どこかでぶっ倒れてんじゃないかって心配したのよ」
信也の姉、日比野香奈絵は立ち上がり、自分の頬を両手で摘みあげる。抓られた信也の両頬は伸ばされ、前歯を剥き出した。
頬から伝わる痛みに眉は垂れ下がり、信也は不格好な苦笑いになる。
「あたしはね、父さんと母さんにあんたの事を頼まれてんの! 信也に何かあったら、あたしの責任になるんだから!」
「わかっひゃ、わかっひゃから! 姉ちゃん、痛ひって!」
「本当に分かってんでしょうね。あんたは手術したばっかなの、今は経過観察中でしょうが!」
一段と強く信也の頬を抓り上げ、香奈絵は指を弾く。姉の責め苦から解放された信也は、じりじりとした痛みが残る頬を擦った。
高校三年の頃に、市役場の公務員試験に合格した香奈絵は、一年前から市役所の事務員として働いている。そこそこ頭もよく運動もできる優秀な姉だ。年度初めに交流派遣を理由に転勤が決まり、柳仙谷町に居を構えることとなった。
信也が手術が成功したことで、弟の卒業まで監督役を両親に頼まれているのだ。
「まぁいいわ。夕ご飯は作っておいたから、早く台所の方に来なさい」
安堵の息を吐き出した香奈絵は、弟に背を向けて靴を脱ぎ去り、玄関口の段差を超えて廊下を歩く。粗雑な姉で言動も厳しいが、彼女も彼女なりに病弱だった自分を心配してくれている。
それは信也も知っていることだが、それでももう少しだけ手加減してほしいと思うのは、弟の我儘なのだろうか。
「姉ちゃんはいつも通りだなあ、すぐに行くよ」
信也は自分の履いていたスニーカーと、姉のブーツを綺麗に並べ直し、香奈絵の背中を追った。廊下には玄関正面に一つ、左右の壁際に二つずつ、合計五つの障子戸がある。
右手前が台所、右奥がお茶の間兼広間への通り口となっており、左側手前が香奈絵の部屋で、その奥が信也の部屋だ。そして最後に、正面奥の部屋が洗面所と浴室へ続く間取りとなっている。
素早く右手前の障子戸を潜り抜けた香奈絵に続き、信也は台所へと入っていった。台所は板張りの滑らかな床で、この家では浴室フロアに並び洋式の造りだ。
台所の右側にはキッチンと食器棚が完備されており、居間の中央に食事用のテーブルと椅子が配置される。左側の長机の上に電子レンジが置かれ、使い終わった調理器具が干されていた。
長机の隣で冷蔵庫は稼働音を上げ、リビングとキッチンの境となる壁際にテレビ台がある。
『死傷者五二人を出した脱線事故から一年が経ち、都市部の線路では本日も遺族の皆様が……』
液晶テレビがニュースを報じる中、テーブルの上に料理が並ぶ。
大皿には自家製のデミグラスソースとチーズのとろけたハンバーグ、そしてキャベツの千切りとプチトマトが盛られていた。茶碗には白米が盛られ、コンソメスープの入ったカップが食卓の縁を飾る。
簡素な食卓だが、病院食や健康食ばかりだった信也には至福の一時だ。香奈絵は雑な性格に似合わず、調理には几帳面で腕が立つ。
彼女曰く、自分が食べる物を不味く作りたくはないらしい。一人暮らしを始めた姉の調理技術の向上を、信也は毎度舌鼓を打ちながら称賛している。
「早く座んなさい、冷めちゃうわよ」
テーブルに腰を落ち着けた姉に促されるまま、信也は彼女の正面の椅子を引いて座っていく。誰も座らない椅子が二つあるが、信也は物寂しさを感じたことはない。
家族四人が揃った情景を浮かべることはあれ、一人で過ごす日々に比べれば賑やかなのだ。これ以上を求めるのは贅沢だろう。
「いただきます」と声を合わせ、姉弟は合掌して手元の箸を持つ。
食事は始まり、信也は主催のチーズハンバーグへと箸を伸ばした。
適度に焦げ目の付いたハンバーグに箸を差し込み、一口サイズに小分けする。切り取ったハンバーグの断面にはソースが落ち、吹き出た半透明の肉汁と混じり合う。
信也が口にしたハンバーグは噛む程に弾力を舌に伝え、仄かなチーズの風味とソースの辛さを口の中へ広げていく。ご飯も進みそうだ、神社までのウォーキングで信也もエネルギーを使っている。少し胃に重いくらいが丁度よい。
「信也、はいこれ。胡麻ドレッシングでいいわよね?」
「ああ、うん。ありがとう、姉ちゃん」
香奈絵が手渡してきたドレッシングの容器を、信也は右手を伸ばして受け取った。胡麻風味のキャベツが水音を上げながら、自分の口内で砕かれる。
何気ないやり取りが、病気の回復を伝えてくる。今の幸せを、信也は頬を緩めて噛み締めた。そんな和やかな食卓が続くが、信也は食事を楽しむのを一時中断した。
自分には姉に尋ねるべきことがある。湯気の立つコンソメスープを一口飲み、信也は喉を潤してからカップをテーブルの上に戻した。
「姉ちゃん、秋祭りの事で聞きたいことがあるんだけどさ」
「んっ? いきなりどうしたのよ、そのことは前にも話したでしょ?」
「そうなんだけどね。今日あの神社に行って、もっと詳しく知りたくなってさ」
信也は香奈絵の瞳を見つめて問いかけるが、しかし祷の事については触れなかった。異性絡みだと姉が邪推してからかってくる上、無人の神社に出向く変人と紹介するのも祷に悪い。
そして何より、信也の直感が「話したくない」と警告していたからだ。信也の質問を受けた香奈絵は箸を茶碗の上に置き、顎に手を添えつつ目を閉じる。役場の資料を思い出しているのか、もしくは役場職員として推測しているのだろう。
「祭りをやらない一番の問題は町の予算関係が大きいけど、祭りの再開を訴える声が少ないというのも、原因の一つだと思うわよ?」
「そんなに少ないの、華姫祭りの再開を希望している人って?」
「いいえ、懐かしんでいる人は多いわ。ただ、大半の人が祭りが中止になったことを受け入れて、諦めちゃってるのよ」
「そうなんだ。でも、それは仕方ないよね」
信也は箸を握り締めて俯く。個人ではどうしようもないことだから、多くの町民が割り切ってしまっているのだろう。一人が躍起になって訴えた所で、大衆は振り向かない。
やるだけ無駄だと、そう結論づけるのが普通である。
「町の若者離れも進んじゃったし、昔みたいに青年団に活気がある訳じゃないわ」
「年配者だけでやるのも味気ないって事だね」
香奈絵が箸でハンバーグの欠片を掴み、信也は白米を口へと流し込む。
悠然と食を再開した姉に反し、信也は鬱屈とした精神を紛らわすべく米を噛み続けた。唾液に混ざる米粒達の甘さも、彼には苦々しく感じられる。
「もしかして信也、あの祭りをもう一度したいとか思ってる?」
食事の合間、コンソメスープを喉に通した香奈絵が食事の手を休める。真っ直ぐに信也を射抜いた姉の瞳には、弟の真意を計ろうとする意図があった。
「それは……その……うん。できれば見たいけど、でも無理だよね」
信也が目を泳がせてたじろぐと、香奈絵はテーブルへ頬杖をついて一息吐く。自信なく口淀む弟を見かねたのか、香奈絵は小さな笑みを溢していた。
それは姉の優しさなどではなく、情けない弟への呆れに近い印象だ。
「その祭りの事だけど、夢見旅館の娘さんが再開に向けて活動してんのよ」
「夢見旅館っていうと、僕が十年前の旅行で泊まってた民宿だよね?」
「ええ、信也と同い年のはずよ。同じ学校に通ってるんだし、会ったことあるんじゃない? まさか、またボッチだったりするの?」
「ぼ、僕はほら、まだあんまりクラスに馴染めてないから」
あはは、と誤魔化すように信也が頭を掻くと、頭を抱えた香奈絵は「どうしようもないわね」と、弟の不甲斐なさに落胆していた。
自分を責められても困る、努力をしていることだけは姉にも理解してほしい。
「とにかく、祭りが気になるなら、一度話してみてもいいかもしれないわよ。どうせだし、明日の学校帰りに役場へ寄ってくれたら、あたしが紹介してあげる」
引き攣り笑いをする信也に、香奈絵は腕組みをして提案してくれた。またとない機会だ、信也の脳裏に祷の言葉が浮かんだ。
もう一度秋祭りが見たい、それは信也の胸の内に秘められた思いでもある。友人の輪を広げるためにも、会ってみる価値はあるかもしれない。
「じゃあ、姉ちゃん。よろしくお願いしてもいいかな?」
太股の上に両手をついた信也へ香奈絵が頷く。やがてリビングから喧噪は消え、一人の少年の新たな出会いの予感と共に、姉弟の食卓は終わりを迎えるのだった。