8月のシリウス
Nmのホミサイドのあと
サンゴが私を背負って冬の海に連れて行ってくれた。昼間ならきっと大丈夫だろうとアズマ様も許可をしてくれた。
南から風に流されてきたのか、砂浜は水晶の粒でできていた。太陽光が反射し、キラキラと輝く。水晶には浄化作用がある。宝石族としては心地よい場所だ。
海の音がする。湿った潮の香りが鼻腔をくすぐる。
火山が好きな私に対して、サンゴは海が好きだ。私がいると動きにくいだろうから、別行動をしようと提案した。
「本当にいいの?大丈夫?」
「私はお前の兄だぞ。大丈夫に決まってるだろう。」
「…じゃあちょっと走ってくるね!」
砂を蹴りあげ、駆け出す。
赤い髪をなびかせているサンゴの背中が遠くなっていく。
海は静かだった。本当にこんな海から怪物が這い上がってくるのだろうか。
まさにアパタイトのような色の海。波の泡は真珠のようだ。
ほうと、溜息がでた。寒いといえば寒い冬。白い息が漏れる。掌を擦るとほんの少し温かさを感じた。
私にも何か出来ることはないだろうか。海からの脅威に立ち向かえるくらいの力を手に入れられないだろうか。
…かつての兄弟たちを救ったりも出来ないだろうか。
考えにふけっていたから気づけなかった。
海が突然荒れ始めた。その中心から出てきたものは…
「ヒマノフト…!」
鐘をつくような、轟音と呼ぶべき鳴き声を上げた。ヒマノフトから何かが海に剥がれ落ちた。
私は心臓の宝石が欠けている。だから脚が動かない。それが何を示すのかと言うと、
「逃げられない…」
ヒマノフトは私をめがけて走ってきた。
キュッと目を閉じる。何も起きない。
うっすら目を開けば、ヒマノフトはすぐそばにいた。でも、目の前から動こうとしない。
「どういうつもりなんだ…?」
触ってみようと思った瞬間、ヒマノフトが大声を上げた。
音がビリビリと私の頬を駆ける。耳に潜り込んで暴れ出す。
鳴く度にまた何かが剥がれ落ちていく。落ちたそれは水晶を赤く汚し、白いものを残して砂浜に消えた。少し間を置いて白いものも消えていった。
何度この声を聞いただろうか。そう思い始めた頃、空からヒマノフトに向けて矢が放たれた。この独特な形状の矢は、月界人のものだ。ヒマノフトを殺すつもりだろう。
ヒマノフトが鳴くことで、月界人にとって何か不利益があるのか。
「頑張れ、ヒマノフト!」
青白く輝く瞳が真っ直ぐ私を見据えた。
鳴くことに何の目的があるのかは知らない。だが、この怪物は敵ではない気がする。何かに戻っていく。
ふと、ヒマノフトにくい込んだ輝く何かが見えた。心臓か。
矢はまだ放たれる。脚が動かないのがもどかしい。よろけながらもヒマノフトは耐える。
もうヒマノフトの体は小さくなっていた。声も軽やかな鐘の音に変わった。終わりが近いのかもしれない。
───カランカランッ!!
「…綺麗な声だな…。」
それが最後だった。最後の何かが剥がれた。中から現れたのは、人間のようなもの。
「ようやく外に出られた。」
そういうと彼は、もっと私に近づいてきた。
「…誰だお前は」
「んー、さっきの俺は大きな犬のような姿をしていたでしょう?だから俺の名前はシリウス。冬のヒマノフトであるにも関わらず、榊様が救いの手を差し伸べてくださった。だから俺も誰かを救わなくてはならない。そう思ったんだ。」
シリウスは自分の胸に手を当てると、心臓の宝石を取り出した。
「ヒマノフトは108回鳴くとあるべき姿に戻れる。ヒマノフトは人間の死骸の塊なのだよ。しかし、海の底の死骸の山に埋もれ外に飛び出せない魂がある。そういう魂を持ったままの死骸に空っぽの死骸が108体まとわりつく。だからヒマノフトは109人の塊ということになる。」
「そんな仕組みだったのか。」
「そう。そしてヒマノフトがただの怪物になるか、理性を持った救いの一手となれるのか、それを決めるのは榊様だ。」
「…榊様とは一体どういう…」
「それはまたあとで話そう。この心臓をアズマに持っていきなさい。そして君の欠けた心臓に移植しなさい。フォルステライトだからペリドットにもきっとよく馴染む。」
そう言って心臓を私に手渡した途端、前のめりに倒れ込み、やがて砂浜に消えていった。
サンゴが慌てて駆け寄ってくる。
「ごめん。助けたかったけど怖くて動けなかった…」
「…いいよ。怖いものは仕方ない。賢明な判断だ。」
頭を撫でてやれば嬉しそうな顔をした。
「カンラン、それはなに?」
「ヒマノフトにもらったフォルステライト。私の心臓に移植しなさいと言われた…。」
大急ぎで家に帰った。そんなに急がなくてもと私は言ったのだが、サンゴは聞く耳を持たなかった。
「ただいま帰りました!」
「やぁ、おかえり。何事も無かったようで良かった…。」
「いえ、とんでもないことが起こりました。目の前にヒマノフトが現れるなんて…」
アズマ様に何が起きたのかすべて話した。
「そうか、榊様が…。」
「そしてシリウスの心臓がこれです。」
「これを移植しろってか。ふーむ、もしかしたら足が動くようになるかも。やってみる?」
「えぇ、もちろん!お願いします!!」
自分の心臓をアズマ様に手渡せば意識は無くなる。
目が覚めた時には全てが終わっていた。
「カンラン、調子はどう?脚は動きそう?」
「…調子は良さそうです。もしかしたら動く、かも…」
久々に自力で膝を曲げた。なんとも言えない感動が押し寄せた。
「動く!動きますよ!!」
「すごいじゃないか、カンラン!」
「カンラン、脚動いたの!?じゃあ、立てたりする?」
「ちょっとやってみようか…」
ベッドの淵に腰掛けた状態から立ち上がってみる。が、すぐに崩れ落ちてしまった。
「ちょっとまだ立てそうにないな…。」
「じゃあ一緒にリハビリすればいいよ!ね、アズマ様!」
「そうだね。ゆっくり良くしていこうか。」
半年もすれば自由自在に動けるようになった。簡単なダンスなら余裕で踊れる。踊ってるところをサンゴに見られた時は恥ずかしかったが…。
脚が動く、それだけのことがこんなにも嬉しいなんて。
「カンラン、踊るのはいい加減にして、戦いに備え始めようじゃないか。」
「いいだろう、シリウス。楽しいんだから。本当にありがとう。」
「私の肉体はどの道滅びる運命だった。まさか心臓を明け渡して魂が同化するとは思わなかったが、カンランが喜んでいるのなら良いさ。でも、戦いへの備えは怠らせんぞ。妙な気配を感じるのだよ。遥か空の上から。」
窓から空を見上げてみる。黄金に輝く月だけが見えた。
「何も無いぞ?」
「うーん、カンランの目にはそう映るか。俺には真っ赤な真っ赤な月が見えるぞ。」
「…。」
「さぁ、明日にでも備え始めよう。」
よくわからないが、頷いてみた。