-782話 姫巫女降し 57-
エスカリオテ王は、多くの密偵を介してブルーメルの高級貴族たちと、よしみろ築くことに成功している。例えば、事が成就した暁には――という口約束で、彼らを懐柔して、内部から裏切らせるという方針だ。
だが、切れ者が一方だけにあるとは限らない。
摂政でも可能性という根拠なき不安を前にして、それでも内部調査と称して、密命の兵を派遣した。その悉く、帝国貴族の背中を監視して怪しき者を次々と捕縛していったのだ。
それが、侍女ら使用人だけでなく、親類縁者にまで至るすべての裏切り者をだ。
当然、裁判もなく言いがかりや、果ては冤罪であっても処刑されたのである。
一見、苛烈のような仕打ちに見えるが、そういう引き締めがあって帝国はかつてないまでの難攻不落と化す。
伯爵も摂政が行った政策を考えなかったことはない――綱紀粛正とはこれ位がちょうどいい。しかし、失うものはもっと大きくなる。今、立て直しを第一に考えた場合、その強硬策は選択できなかったのだ。
◇
エスカリオテ州から来た使者が持ち込んだ話に、幼帝が飛びつかないはずはない。
彼に皇帝という地位は重すぎたのだ。
いや、もう少しクリーンな言い方をすれば、地位も肩書も煩わしく面倒なものという考えだ。
もともと、55歳ニートで引きこもりの童貞である。
泡の天国、桃色吐息のサロンさえ足を向けたことのない、社会不適合な男だ。
ま、貴族出身の中性的な少年たちと、毎夜のごとく衆道に走る好色家であるから、不適合は言いえて妙である。
どうしようもない変態さんだ。
羨ましいほどの――。
その幼帝に宛てられた魅力的な提案は“退位すれば、遊んで暮らせるだけの贅を土産にくれてやろう”である。いうなれば、禅譲しろと言ってきたずいぶんストレートな内容だったが、内政だの外交だのはたまた、陳情のために方々から押し寄せる、領主たちの何を言っているのか意味不明な、呪文に悩まされるのは苦痛の何物でもない。
これが、まだ4歳だの5歳の少年だからという理由で、日に2時間程度の形だけの儀式として部屋から引っ張り出されるのだ。しかも、1日は24時間しかない。うち8時間を睡眠に当てて、1時間を侍女や使用人たちの沐浴を覗くために使用する――それ以外の14時間は、剣術の稽古や馬術、弓術、地政学に歴史など、他に魔法の修練なんてのに遣われた。
これが毎日も続けば、もう、十分だ。
これで癇癪を起して反乱しない子供は居ないだろう――というのが55歳のおっさんの言い分だ。
目の前にラインベルクと、エセクター伯爵がある。
彼らの目が糸のように細くなって呆れていた。
「で、敵の懐柔策に乗ったわけですか?」
軽い雰囲気だが、これがちょっと怖い。
ラインベルクも引きこもりの自宅警備員だった。
気持ちも分からなくもないが、少なくとも家は領地もちの伯爵家だった。
だから貴族としての最低限の矜持と、責任というのを理解している。
誰かよりも恵まれた地位にある者は、国家や国民に奉仕する立場にあるということだ。
領地もちの伯爵家であれば、領民の安全と人生を守るために努力する必要性にだ――これが特権階級を持つ人間の定めである。
「このおっさん、責任放棄だけは一人前ですね」
幼帝を目の前にして、おっさん呼ばわりしているのは、その中身を知っているからだ。
本人が打ち明けたので、疑いもなくそう信じている。
「だが、馬鹿にもほどがあるだろう? 一生遊んで暮らせるその金の出どころはどこだってのを理解していない。俺たちはこいつに何を、教えてたんだってことにはならんか?」
遊んで暮らせる贅は、国民から吸い上げた血税である。
人の褌で相撲を取るようなものだが。
「もう少し頭を冷やして考えろ、傀儡でいいというのなら、そうしてもいいが...その場合は退位したら廃皇帝となってせいぜい公爵を名乗れるか否かってくらいになる。仮にだが、百歩譲ってエスカリオテ王がブルーメル・イス第一帝国皇帝を名乗るとしてだ...そこに4歳のいや、5歳のお前さんに公爵家を持たせてくれるかね?」
少しだけ不安が過る。
これは、秘密裏に話を貰った時にも感じた不安だ。
六兄に対して公然と、敵対したつもりはない。
が、先の摂政を後見人とした時点で、敵ではなかったかという不安だ。
「ようやく密約の怖さが分かったかな?」
情けない表情の男がある。
形だけは未だ少年だが、前世の記憶と、はっきりと55歳という無駄な年月を重ねた男の意識があるおっさんが、ガチガチと震えながら両人の手を握ろうと腕を伸ばしてきた。
「面倒なことをしてくれたものだ」
◆
シヴァ卿は、胸元を飾っていたタイを荒々しく解くと、椅子の背に投げた。
その後ろで、マルの小火気が聞こえる。
「爵位なんていらないよ」
「あると便利だぞ!」
飯はツケが利く。
黙っていても俸禄を貰える。
適当に社交場へ行って、飯だけ食って適当に帰る――と、いった話をマルに聞かせた。
「それのどれもが、伯母上の好きなことだけじゃないですか!!」
マルの呆れ顔はマスクによって隠れて見えない。
が、シヴァには予想がついているから――。
「お前がそういう表情をすると思って選んだだけだ」
彼女は、マルを犬猫でも扱うように抱き着いている。
「そうそう、土産...忘れてたわ」
“バディン”戦線で買い集めた、紅い宝石ばかりをハンカチで包んで持って帰ってきた。
荷解きもしなかった背嚢から、。それらをベッドの上で広げて見せる。
「さあ、好きなものを選べ!」
「好きなものって、全部、紅い宝石じゃん!!!」
再び、溶けそうなくらいにため息を吐く。
「ボクたちはこんなんでいいのかな?」
「ん?」
「ボクたちだけがごたついてた分、エスカリオテの方は着実に力を溜めてたよね?」
マルの言葉に反論はない。
「ああ、この国はな。辺境伯領と、協力関係の三皇子領を除外すれば、今も基礎の部分で悲鳴を上げているような軋み具合が気にかかる。これでは旗頭を幼帝にしたところで誰も、兵は集まらんだろう。加えて...この国の財政難は深刻だぞ?!」
「は? ざい...せいな...え?!」
「なんだ、知らなかったのか。毎年拡大し続けるために教会からアホなほどの戦闘員を送り込ませているんだ最前線にな。魔法士のレンタル費用が嵩み過ぎて、家計はもう、火の車通り越して、大炎上中なんだよ。それでまだ、拡大路線を止めようとしないから、各将軍で停戦をすることに決めたって話さ」
マルの目が点になった。
これもマスクの向こう側のことだ。
が、シヴァの微笑みは、なぜかうれしそうであった。




