-727話 姫巫女降し ⑦-
城壁の周りにあった敵兵は、蜘蛛の子を散らすように谷の向こう側へ消えていった。
長城の一部は壊れているものの、大事には至っていない。
いくつかの点検や修繕を必要としたとしても、鎮台府の団長曰く――この城は難攻不落。今まで幾度もの敵兵からの攻撃を受けてきたが、抜かれたことは一度もない――と、豪語していた。が、それは守備兵力が十分に満たされていて、常に緊張感に曝されていたという状況でだからだ。
殆ど平和ボケにもちかい事態では、6合目まで囮にされあっさり城壁前まで、急接近を赦している時点では、団長からの“安心してください”なんて言葉が空しく聞こえる。
「組織的と言うか、何か魔物っぽくない...」
「マルの言う通り狡賢いのと、理知的に組織行動するのとでは意味合いが全く違う。今までは、行き当たりばったりのような雰囲気を持ちながら、わざわざ屯田兵のいる陣地を襲撃して多大な損害に見舞われているのに...今回は、そうしなかった理由は何だ?」
エセクターが言い終えて自ら、人差し指を徐に立てる。
「守備兵が何人出て来るのかを知りたかった?」
首を横に振った。
――いや、違うと、零す。
「進撃速度が速いとなれば、体勢の立て直しを考えるのが普通だ。目に見えて速度の速さをアピールした可能性がある。そもそも南進している理由は悟られたくはない筈だからな」
「ええ、意図よりも進軍しているという行動、それを悟られたくはない。私なら、攻める相手の虚を突きたいと考えるから、少なくともギリギリまで秘匿するわ」
エセクターは卓上の紅茶をすする。
4000の騎兵は、周囲の敵を殲滅し終えた。
結果的に殿として行動に出た、六皇子と歩兵たちは、逃げる敵兵に出会うことなく帰参したことになる。仕事らしい仕事も無かったのに、歩兵たちは英雄的活躍の武勇伝という話を吹聴して歩いている。
酒場などの肴は、ソレで持ちきりだ。
ラインベルク一行も元の宿舎に戻って、雁首を並べていた。
「確かに普通はそう考えてしかるべきだ。相手に見つかるということは、兵の数で勝る帝国兵と正面から迎え撃つことになる。で、勝つ見込みは?」
「あると思ったから?」
リフルの問いは問いじゃない。
本人自身が首を横に振った。
「ごめん、忘れて」
「どうしたの?」
「リフルも思い至ったんだよ、な...マル?」
ラインベルクの手がマルのふくらみに触れた。
そもそも彼が手にしたかったのは、マルの肩だったのだ。
が、これは不可抗力だった。
まさか、思った以上にマルの座っている位置が高かったとは――その指先が“乳首”に触れるとは思わなかったのだ。そして、マルが変な声で鳴くとも思っていなかった。
リフルの中で何かが切れた。
エセクターは固まっている。
「あ、...ちょ、ちょい...待て、待とうか、な、お、おい...」
銅製のジョッキが、ラインベルクの方へ投げつけられる。
彼女の剣膜は相当なものだ。
隣の隣へ逃げて行く漢を追った。
更に隣の卓上につく客を投げつけてくる始末に、遠巻きながら見ていた宰相はこみ上げる笑いを抑えきれないでいる。
「これは、とんだ災難だなな」
「いえ、自業自得ですよ」
と、供回りの騎士に告げられた。
◆
城内の拷問部屋には、負傷して動けなくなった魔物が、縛り上げられていた。
一見すると、鬼族のようにも見えた、白い肌の化け物は己たちを亜小鬼族だと、名乗っている。
小鬼はその成獣が、人間の12、3歳の子供くらいの大きさが普通だ。
しかし、その亜種とするホブゴブリンは、そこそこの大人と大して変わらない。
身長があるということは、振り上げた腕から繰り出されるしなやかな攻撃は、強力だということだ。また、大きな武器を使うことが出来るということになる。
これは、それだけで脅威だという事だ。
城の拷問官に対し、ホブゴブリンは頭を振った。
「これで何を聞き出すってんだ...」
典型的な水責めと、鞭だけがラックの上に置かれてある。
「な、なんだ...余裕か?」
冗談は止せと、呟いたが否定された。
「これが本当に拷問だと? 俺がその程度で泣きを入れるとも?」
再び嗤われ首を振ってみせた。
「舐めすぎだ!」
上半身だけで飛び掛かりそうになったが、彼の腕輪と首輪がそうさせまいと椅子に引きつけられ固定された。彼の後ろには、12人の戦士たちがある。
それぞれが伸びている3本の綱と鎖で抑え込んでいる。
「ああ、舐めすぎていたな」
親指の爪を剥ぐ。
唐突な出来事に魔物が鳴いた。
「おお、すまんな?! これは爪か」
足元に鍵爪のひとつを落とす。
拷問官が手に持つのは、歯や釘を抜く時のペンチだ。
「...っちくしょー!!!!」
「これも、痛くは無いのだろう?」
「...」
無言だが瞳に怒りが湧いている。
指からは血が流れ、ひじ掛けを伝って血だまりになりつつある。
「怖い顔をするな...こういうのは不意打ちが効果的なのだろう? お前たちが我々を襲う時も、女を抱く時も不意打ちなのだろう?」
違うか――と、つづけた。
「ちくしょー!」
目的は何だと問う。
答えなければ、親指から始まった爪を剥ぐ行為も薬指に到達していた。
「俺たちは雑兵だ。ただ、戦場へ行って命令のままに村を襲ったり、補給処を襲撃する! それ以外の事は何も知らない。ただの兵隊だ!!!」
と、謳った。
「俺もこんな下種な事はしたくないんだがな...」
小指の爪を剝いだ。
「ぎゃあああああー!!」
「兵数は?」
「あ...」
右手の指に爪は無い。
男の足元に転がる塊は、魔物の爪だ。
仲間を引き裂いた魔物のものだ。
「だから、末端の雑兵が知らない事はだな...」
「知らない、ああ、よく分かっているが...お前たちは数を数えられる。そして機転を利かせて、常に戦術的効果を求めて行動している。例えば、6合目だ――5合目までなら奪った戦利品で今年どころか来年の冬も越せる備蓄量だった筈だ。だが、そこで終わらせる気は無かったのだろう?」