-722話 姫巫女降し ②-
水を張った桶の中に、飛び込んだマルの身体に気力が戻り始める。
このまましぼんで消えてしまってもいいと思っていたが、身体はそういう心とは裏腹に、生きる活力を得て、死を跳ね除けた――こうなると、しぼんで見え難かった視界も次第に回復する。
「どうだ、生き返った雰囲気だな...スライム?!」
エセクターは、見た目の雰囲気とは真逆な笑みを浮かべている。
いや、オーラだ。
ぱっと見は、清楚な信仰者に見える。
およそ、周囲の人々には“神”仕える修道女、いや聖女なのだろう。
それだけ清廉さに磨きが掛かっていると、表裏一体の裏側は底知れぬ腹黒さを感じてやまない。
水桶の縁から、マルの不信な瞳が向けられている。
「採って食おうなどいう事はしない。まあ、街中でスライムを見たのがはじめてなだけだ」
それに、スライムの喰い方など...このエセクターは知らぬし――と、彼女はマルを笑わせた。
◆
暫くすると、マルを抱きかかえた青年が部屋に入室する。
当然、エセクターに確認を採った上での入出だ。
「抱えた時はダメかとも思ったが...なるほど、これは随分可愛らしい拾い物という事か?」
彼の目は、マルを値踏みするように向けたものだ。
一応、武人の端くれだと思っていたが、人の売り買いでもしているのかという雰囲気もある。
マルの周りを歩いて、容姿、佇まいなどを見ていた。
「やっぱり...お前も」
「いや、何の事だ」
マルの質問は“拾い物は売り物か”という簡単なものだ。
そういう流れは良くある。
あるから、街ひとつを壊滅させるようなことをして、静かに逝ける涼し気な場所を探していた。
「だから...」
「これはひとつ大きな勘違いをしているのさ」
エセクターに、後頭部を叩かれた。
マルの目が見開かれて、何度も瞬きを繰り返す。
「スライムの癖にすべてを見てきたかのように悟っている。ま、ただのスライムに“外見擬装”する輩が居ると言うのも、驚きだが...本調子ならば如何ほどの魔法力を持つのかも...」
と、ふたたび後頭部を“ぽん”と叩かれた。
今度は2本のくせ毛を掌でもみくちゃに搔き乱された。
「ほう、スライム...って、もしかして水辺やダンジョンなんかにいる...獲物を襲う、あのどろっとゼリー状のアレか?!」
「ええ、魔物ですけど、それですよ」
ころころと嗤う。
だが、主人の前にあるのは、エセクターの麻衣に袖を通した小柄な少女だ。
彼女にスライムだと言われてもピンとは来ない。
「で、外見を人に寄せるのは、やっぱり難しい事なのか?!」
エセクターの眉根が上がる。
聊か主人の無知さに苛立ちを覚えた感覚だろうか。
「亜人などが人を連想する時は、自分の姿に人の影を足し算すればよいのです。見たことがある、近くに手本があるなどの好条件であれば、習得は容易でしょうな。しかし、スライムが人に寄せるのは至難の業。およそ人を喰らえば...」
マルは、無言で首を横に振った。
彼らの目がやや怖かったからだ。
“喰らったのか”と、無言で圧力を加えられた気がした。
「で、無ければやはり難しい。これに尽きるでしょうな...」
「なるほど、お前は凄いんだな!」
と、素直に褒めてくれた。
「俺は、ウードゥルの息子、カルス。カルス・ヴァン・ラインベルク...騎士爵だ」
何処か聞き覚えのある名だと、マルは小首を傾げた。
青年の微笑みに血生臭そうな雰囲気はない。
と、いうか少しバカっぽいとも思えた。
「ああ、こいつは無類のバカだ...それでもタネはタネ。私は、私の繁栄の為にコイツの竿を狙っているものだ」
と、エセクターは、マルにその素性を隠すことなく本性を顕わにした。
竜人などと同じく竜の眷族だと言われる、ガーゴイルという魔人という正体をだ。
マルが目を丸くしていることに、人であるラインベルクが嗤った。
「ああ、それ...魔物でもやっぱりみんな、同じ顔をするんだな!」
「え?」
「ふふ、エセクターは俺の守護天使だ。いや、ちょっと違うか...ま、その他にもリフルって皇女も居るんだが、あれはちょっと未だお前に会わせるのが...なあ?」
エセクターに振ったが、彼女は他所を見ている。
《女の子だったと知られるのは非常にまずい...また、かどわかしたと思って大鉈でも振り回しかねんだろうなあ》
と、やや、気まずそうに見えた。
◆
後日、エセクターを最初の師として、この世界のことを教授して貰った。
リフルという皇女との面会もそれ以降に行われ、マルは、正式に“ラインベルク騎士団”に迎え入れられたのだ。
世界構造は、至極単純にして明快なまでの、御家騒動真っ最中だということだった。
ブルーメル・イス第一帝国と、後に呼称され大版図を築いた、帝国の皇帝が崩御して5年。
転移者という稀有な経歴を持つ、カルス・ヴァン・ラインベルクという青年は、今より2千は先の世界から来たという未来人だと明かしてきた。
が、これを理解できる者も少ない。
師のエセクターが術式を組み、青年を引き込んだ者で、その青年の背を押したのがクマ娘リフルという事になる。
「話がここだけ極端に大きくて...わくわくするけど、頭、おかしい人扱いされるんじゃない?」
マルの問いは正当だ。
魔法に明るい人間でも、召喚術式で呼べるのは薄壁を越えた異界と、少し離れた地にある同じ時代の世界の者だ。この場合は召喚というより転移に近いが。
時間を越える召喚術なんて聞いたことが無い。
「ま、普通はそう思うだろう...」
「え?」
「私としては...マルほどの才がある訳では無いから、師として敬われるのが少し気恥ずかしいところだ。が、あの時は、まあ、出来たんだ...天の采配か、或いは――まあ、偶然が重なってカルスを呼べた。無数に広がる枝葉の中に一筋の光が未来と過去を繋いだ瞬間だろうな」
マルは腕を組み「深いね」と、呟く。
呟いて、彼女を見上げた。
「で、バカで良かったのかな?」
「それは私にも分からん...」
乾いた笑いしか出なかった。