-721話 姫巫女降し ①-
ハティの顔色が、徐々に良くなっているのは、見える化されていていい事だ。
治癒固有結界の効果に寄るところが大きい。
ただし、その反対にマルの表情に陰りが見える。
ちょうど、将軍の傷が言えたと同時にマルが昏睡する。
飛び込んできた、メグミさんの腕の中に力なく倒れ込んでいた。
「マルぅ!!」
メグミさんの声は彼女には届いていない。
別に死んだわけではない。
死んだように眠っているだけだ。
――無茶が過ぎますよ、紅玉姫は。
メグミさんの頭の上にあるクロネコは叫んでいた――にゃあーと。
◆
第5億8990万4723回、冥界女王の饗宴会――。
変な案内板に誘導されるように、マルは中腰、前屈みになって布一枚の身一つで歩いてた。
眼だけ動かして足元を見ると、自身が裸足である事には容易に気がつくが、石一つ落ちてない石畳みの回廊がまっすぐ伸びている。
「いたくない...」
マルのひとりごちた言葉に呼応するように、ゆらゆらっと薄い影が集まってきた。
「ええ、私たちが毎日絶えず竹箒で掃いておりますから」
ぱっと見でも影の薄い魂魄だと分かる。
「おや、こんな状態でもお気づきですか?」
と、問うのは、年季奉公も明けようとする魂の残滓が見えているマルに驚いたからだ。
務めを終えれば、彼らにも転生という道が広がる。
「ああ、なん、と...なく見える...」
目を細めるほどに薄い存在だが。
マルにしても、瞳をこらすとか、瞼を落として細目で睨む程度しか、身体を動かせない感覚だ。
あとはなんとなく惰性で歩いている。
宴会場の何かに引き寄せられている、そんな感じなのだ。
幽霊たちはまた、見えなくなった。
次に馬に跨る者たちが背から追いすがる。
先ず頭を上げられないから、何者かは見当がつかない――だが、似た感じの連中は知っている。この人を卑下したように横柄な連中の気配はいつの時代も好きに成れなかった。
「どけ、平民!」
幽霊の癖に横柄な態度だが、疲れているせいか身体が動かない。
馬に突き飛ばされて、石畳みの上を転がるように端へ。
「雑種が! 我ら王侯の氏族が通っておるのだ。道を空けぬか、愚か者どもが!!」
蹄の音が聞こえる。
石を蹴り上げる軍馬の蹄の音だ。
その後に多数の男たちが踏み込む足音が続く。
あの時と同じだ――
◆
マルは、其処ら辺にあった布で身体を巻いて各地を巡っていた。
行く当てもない。
気が向くまま、風が吹けばそれに押されるように歩く。
手持ちの荷物は、いつも簡素だ。
二枚の縦長の織生地を重ねて包、たすき掛けに背負うだけの荷物。
着替えなどもなく、ただ泥だらけ、土埃を頭の頭巾から被って放浪していた。
着の身着のままの気楽な生活だ。
いや、凡そ生活ではなく、留まることを知らないだけだ。
立ち寄った街は、今までのどの国、都よりも大きく立派な地だ。
だが、何処へ行っても他人に対する当たりの悪さは同じだった。
平民が馬の前を横切れば、問答無用に切り殺される。
街にある氏族が籠で通るだけで、平民は額を地に付けて平伏しなければならない。
それは、籠が見えていようといまいと関係なしにだ。
そこには明確な上下関係がある。
身体だけでなく、魂までに刻み込ませた絶対的な関係がだ。
道端に転がされたマルに差し伸べる手は、その平民たちからにもない。
「こやつ、薄汚く草鞋もない...間者にしては、いや、だとしたら見事な道化! 我が馬を汚した罪は万死に値するぞ!!!」
と、背中の向こう側から聞こえてくる。
虚ろな瞳で見返してやりたいが、マルにはその気力がない。
水は朝露で少々唇を濡らした程度でも、スライムの彼女ならば十分だが、聊か食事が少し遠のいている。動くとしても惰性で歩いていただけだから、どこか涼しげな場所で、静かに逝きたいと願っているだけである。
「物言えぬ者か」
興が削がれる――と、馬上の男が吠えた。
向けていた刃も天上へ向け直していた。
それ以前に籠の主人が“こんな場で血など見たくはない”と言伝た。
これで、マルは矛で刺される事無かったのだ。
しばらく群れの足音が響いている。
地に転がっているマルの頬、胸と腹に伝わる地響きでそれと分かる。
長い――この行軍中、人々は何もできずにずっと、平伏したままで無ければならない。
最後尾と重なる頃、マルの身体を抱える者がある。
「ふむ、少し軽いが脱水はしておらんな」
マルは、着の身着のままという状態だ。
当然、相当に獣臭い状態であるにも関わらず、彼は何の躊躇なく黒い布の塊を拾い上げた。
「エセクター、この者の傷を癒せるか?」
黒づくめの一群の中で、ひとり、清潔な白い麻衣を頭から被った者がある。
“エセクター”と声を掛けられ、その者は素早く集団から抜け出てきた。
平伏している市民たちの上目使いで、その麻衣の者が修道女だと知れた。
「皆の衆も、もうよい! 頭を上げて、普段の生活に戻ってくれ」
男のひと声で、再び町はいつもの喧騒を取り戻していった。
◆
表の看板には“はち蜜と熊手亭”と掲げてある。
食堂と宿屋を経営しているが、宿の方はいつも満席扱いだ。
と、いうのもこの宿屋は表向きと裏向きの表裏があり、その裏向きというのが本当の顔であるからだ。
宿の裏手には水路がある。
普段なら、水路から誰とも気づかれずに宿舎に戻るのが彼らだった。
街の氏族と共に行列に参加させられたのは、それ以前に彼らと戦場で配下として戦わされたからに過ぎない。
たまたまであった。
「まったく、アイツは変なもんばっか増やすんだから」
エセクターが抱えるのはマルだ。
小汚くなった彼女を、桶に放り込んだ。
水をはった桶の中にだ。
「たらふく飲んでもいいが、身体を洗うのに使えよ、スライム!!」