-681話 アスク=マユリの戦い ⑧-
遠巻きに配置している鬼人の襲撃班は、家屋の影にて息を潜めて待っていた。
北区の街道から街へ、入城してくる兵団を挟撃するのが目的だと、彼らには解説してある。
別にそこまで単純に、かみ砕く必要はないが、万が一にもというオズマの傍にある鬼人の配慮だ。
彼が、2万の兵を率いる将である。
「何が起こるのでしょうか?」
鬼人の問いにオズマは応えない。
答えを持っていないからだ。
先行するのは甲蛾衆。
忍者スキルのエキスパートであり、更にその中から中忍を5人選抜し、約200人規模の下忍を率いらせて臨んだ戦場ということになる。恐らく、彼らだけでもパワーバランスは、不安定な状態になっている筈である。
そこへ正規の5千兵が斥候の300人と合流したところだ。
「陣を引き払...」
オズマは背筋の寒さに加えて、腰のショートソードを抜きながら振り返っていた。
咄嗟に出た条件反射だろう。
が、その行動が彼の命を繋ぎ止めている。
鬼人の将帥と似た雰囲気の同族黒装束から、突き出された凶刃を跳ね除けていた。
「ちぃっ」
と、声が漏れると――姿は瞬きと共にかき消えた。
将帥の方は、首根を大きな手で押さえながら、力なく膝から崩れ落ちている。
「お、おい!」
言葉を吐き出そうとすると、口中から真っ赤な泡が噴き出てくる。
襲ってきたのは、中忍のひとり。
索敵スキルだけで本陣のど真ん中を強襲したことになる。
◆
信頼してくれていた鬼人の将が暗殺された。
市庁舎を離れていた、スカーも斥候から戻るなりオズマの下へ足を延ばしていた。
彼の腕の中で、大きな男が瞼を半開きにして倒れている。
「もう、ダメなんだろ?」
「ああ」
力ない言葉だ。
「ここまでひと跳躍で侵入された...んだよな?」
「ああ」
そういう判断だ。
振り返った瞬間に、金縛りのような瞳術を貰ったほどの手練れだった。
僅かに掛かりが浅かったのは、振り返った所作が、気配だけの反射だったからだ。
これが何の気もなく振り返っただけなら、胸元に“ドスンっ”と一撃貰っていたことだろう。
「なら、陣地を」
恐らく、街中に置くならサーチも、トレースもされないバフを用意しないと、2度、3度と先刻以上の手練れが送り込まれる。
「――っ、これが甲蛾衆か」
今更ながらに両手が震えている。
何度もの握り直しているが握力が戻りそうもない。
いや、そもそも鬼人を抱えているが、腰が抜けて立てそうにないのを偽装しているのだ。
「俺らも直接、やり合ったことはないが...知り合いがな、酷く根に持って追っていたんだが...忍者っていう職業らしくてなあ、掴みどころが無いって」
「俺が動けたのは動物的勘だと思う。か、もしくは...こいつの警告だったと思うんだ」
スカーが肩をオズマに貸して、屍から引き離す。
その足で仙術支隊1000人が布陣し終えた陣地へ向かった。
都市の真ん中にある市庁舎には、トラップだけが遺された。
◆
「仕留め損ねた」
弾かれた際にかすり傷を負った、手甲を眺めながら男は、他3人の中忍に零している。
黒装束、黒頭巾、端の長い黒いマフラー姿という連中だ。
装束の下はリングメイルと、部位鎧だけを着込んでいる。
「俺たちの動きに反応できる奴が、居るってことか?!」
「たまたまだろ」
という意見もある。
敵意感知だけで市庁舎までを捉えたが、城内の敵数までは把握していない。
ひと跳躍で、現地に赴き、現場判断で鬼人を襲ったものの成果としては、やや少ない見返りかも知れない。
将軍の死は後日、帝国の知るところとなる。
「化け物のインフレが起きている昨今では、俺たちのような暗殺術は珍しくもないようだな? まあ、モブだし仕方ないが...障害物が多いせいか、隠れている連中が読みにくいな」
短気っぽい台詞が零れだす。
もう少しはっきりとした成果が欲しいと思うのは、常々にある。
暗殺直後は、その衝撃を隠すため、反応はその時々で全く違ってきた。
「身なりは?」
「ああ、確か鎧の縁が“金”だったと思う。いや、少し銀が混じっていたか...」
「はっきりせん奴だな。まあ、この際はだ“銀”だとして、確か5千将以上の将軍か? ならあれだ、酒を奢るのはお前だからな!!」
と、壮年の中忍が、かすり傷を訝しむ男の胸を指で突く。
他の2名は、彼の肩を叩いている。
甲蛾衆では、暗殺で得られるボーナスを、呑み代に使う習慣がある。
殺した者と、殺された者へ献杯する為だ。
「索敵範囲外に奴らは出たし、こちらも中に入り過ぎた...陛下の性格からしても、敵兵に1000の貸しがあるままでは、清算しないとチャラなんて言わんだろうしなあ」
「ああ、其処が問題だ。大方の当たりはつけた...が、罠である可能性は高い」
気乗りはしない。
無理して返す、貸しでもない。
大通りに巨大な楯が横列を強いていたが、今は、適当なところで歩みが止まり陣地化している。
何処からともなく、発砲音が轟き、銃弾を楯が明後日の方へ弾き返した。
と、同時に帝国側からも一発の銃声が響き、暫くすると『ぎゃっ!』なんて悲鳴めいた声が、風の音しか聞こえない廃墟の中で響いたのだ。
それは、明らかに人の声だった。
◆
トイレの扉一枚を挟んだ攻防は、未だ続いていた。
家人からすると、愛娘がお友達を連れて帰ったことに大騒ぎで、トイレ前の攻防に何ら不可思議さを感じていないことだ。
この娘にして、この親ありと、いったところだろうか。
屋敷のメイドが『トイレは冷えるでしょうから』と、クッションと毛布を用意してくれた。
「あ、す...すみません」
トイレ戦争を止める気は、全くないという事を理解した。
アリスの目の前には6枚も連なる豪奢な扉である。
このうち一つが使用中で、鍵をかけて閉じこもる人ありだ。
洗面台は3つで、鏡の下に配置されてある。
よく見れば、お湯も出るらしい事だ。
「ほう、なかなか」
「でしょ!」
自慢げな声が扉の向こう側から聞こえた。
マーガレットの発想から、屋敷の工夫が作ってくれたものだ。
「屋敷の中の自慢したいことがあるなら、その扉をだな」
「ヤダ! ダメ!」
「おいおい...私の腰を冷やさせる気か?!」
「なら、便座にどうぞ」
温かいですよと、告げた。
トイレは扉一枚、隔てた別の世界に誘ってくれると、マーガレットが誘う。
そんな、バカなとアリスが根負けする形で便座に腰を下ろすと――火属性と風属性魔法の恩恵で、便座が生暖かく腰を包み込んでくれた。
致すと、土属性が感知して脱臭してくれるというサービスもある。
「な、なんだ?! これは!!!!」