-675話 アスク=マユリの戦い ②-
“ウランベリィー”帝国領は断念したが、その背後にある“タラズ”領主は、ひそかに軍を動かしていた。彼らと“バルカシュ”は、地域図による、直接的な接点はない。つまりは、強引に接点を設けるには、誰かの治める地域を素通りする必要があるという事だ。
帝国の軍事行動ではよくある行為のひとつだが、いい気分でもない。
敵か、味方かという括りでは無いにしろ、逗留する場合は野宿なんてことはない。
結果的に進軍中の部隊を、通過されるだけの領主がもてなすことになる。これはあくまでも、細やかな争いごとを起こさない為の所作だ。
ただし、勝っても負けてもデメリットはまあ、大きい。
侵攻した先で散々に負け散らかせば、想像に難くなく這う這うの体で逃げ込んでくることは間違いない。これを介抱し、まあ、救助もしなければならず要らぬことで兵も出さねばならない。
侵攻側で完結しないのが、素通り騎行であるのだ。
これが間違って勝つと、領土の飛び地問題が発生する。
最悪、併合さえおこる。
◆
「しっかし、よくもまあ...こんな狭い土地に入ることを了承したとは」
“タラズ”領主は、神輿の上から深い谷へ降りる道を嘆いた。
朝方に進発したその行軍は、昼に差し掛かる手前で夕闇のような峡谷の影の中に埋もれていた。明るいなと思えるのは、数百メートル先の大地の裂け目あたりのようで、峡谷内は背筋が凍る様な寒さを感じる。
「ええい、だれぞ毛皮を!」
地表は50度ちかく熱せられる。
が、日の当たらない河川の付近となれば、氷点下というところも珍しくはない。
この辺りは寒暖が激しい地域なのだ。
「毛皮...ですか?!」
用意していない訳ではないが、数が足りない。
率いる10万の兵たちの震える音が、ガチガチと奇妙に木霊して聞こえている。
「な、なんぞ敵襲か?!」
と、吠えてみる。
「い、いえ、これは我らのものでございます」
冷静にしているようで、実際、足踏みでもしながら他のことを考えている。
鋼の甲冑が肌に触れると、熱を奪う。
それだけでなく、張り付くと大変な怪我に繋がる。
熱い地域だから、フルプレートみたいな西欧のとは少し趣が違う。
肌の露出が多い。
指まで覆った籠手、厚く鞣した皮革と鉄張りのものだが、片手で数キログラムとなかなかに重いつくりのものだ。
これが寒さで皮が湿って更に重い。
指先に温もりの感覚さえなくなっている。
戦争をする前から、峡谷の環境変化と戦うことになった。
「近くの村で暖を?」
「何をバカなことを申すか、この峡谷の幅を申せ!!」
神輿から、眼下の将兵を指さす。
誰でも良かったが、指された者と、その脇、更に隣脇へと目配せをしながら、きょろきょろと。
「ええい、埒が明かぬではなないか!」
「即答せい、即答を! 峡谷幅はせいぜい3~4キロメートル前後じゃし、通り抜けは70キロメートルほどじゃ。儂らは、“シュモ”砦を抜け一路北へ、“アクト”都で一度逗留し...接待を受けた後、翌日の昼までに“ナザル”砦へ赴く計画じゃ!」
心せよと檄を飛ばした本人が、毛皮の団子になっている。
寒くて仕方ないと見えた。
しかし、ハイエルフ出身の傲慢な領主らしく、領民兵の事情などまったく考慮しない。
自身が寒いなら、他人も同じだということなど、頭にもない。
結果の話から入ると、この行軍は進軍するだけで、数万もの人の命が消えた。
進む地獄、帰るも地獄の“死の行軍”となったようだ。
◆
一方、バルカシュの北“アスク=マユリ”には2万の兵団が入城した。
と、同時に1万の兵と住民33万人の大移動が始まった――現在、帝国への帰属を求める気骨ある旧帝国臣民(恐らくは、帝国第二級貴族階級者と考えられる)1000人が残る、ゴーストタウンと化している。
市庁舎の前にバリケードを作り、周囲の家屋を打ち壊した瓦礫で壁を作っている最中だ。
これの指揮をしているのが、仙術支援工兵のオズマ隊長だということだ。
「何をしているのだ?」
鬼人のひとりが問う。
「戦争前の準備です...ま、こんな緒戦から派手に、壊すことなんて無かったんですが...いつもどこかの戦場跡地で仕掛けてたんですがね。いや、まあ、これはこれで仕掛け甲斐があるってもんです」
「いや、だから...何を」
「まあ、見ておいてください。これが帝国流ってやつです」
市庁舎の窓にも、バリケードや本棚などの家具を設置して、胸の高さまでかさ上げしている。
外から遠眼鏡を用いても、中の様子を伺えないように配慮していた。
「あ、窓の前には余り近づかんでくださいよ」
「何ゆえだ?」
「いやね、帝国には遠くから鬼さんの頭を、吹き飛ばせる“弓”みたいなもんがありますからね。ちらっと見えたら...ズドンっです。対物理攻撃とダメージ緩和なんちゅうバフ魔法も即死の前では意味ありませんからね」
と、告げて鬼の手を引き寄せる。
コボルトと鬼人とでは対格差があり過ぎる。
かっこよく肩に手を伸ばそうものなら、机の上によじ登るほかない。
セリフだけかっこよければあとは手でも、指でも引っ張っておけばよいのだ。
「うむ、分かった...が“弓”というのは、その“マスケット”なのだろう?」
北天にも“マスケット”の伝来はあった。
従来の弓よりも、使い手の訓練が楽であるから、採用されない訳がない。
しかし、数の調達に難儀することになる。
国内生産も考えられた――が、結果的にだ、結果的にその技術と人手は、艦載用大砲の生産に注がれてしまった。
現実的には、攻城砲の開発や生産も延期しているような状況にある。
帝国のように同時に二つも三つもと、手広く事業を進めるほど未だ国力に余裕がある訳では無かったという事だ。
しかも現在は、プロフェッサーという賢人によって、空を掛ける宝船の建造に追われていた。
「あ、ええ...マスケットです...ご存じでしたか」