-667話 才知の攻防 ⑭-
マーガレットは、水を汲みに取水ポンプの前にいた。
ハンドルを取って、上下に動かしても空気しか出てこない。
注ぎ口に顔を近づけても、中が見えるわけでもない。
結果、彼女は館の井戸小屋に俯きながら歩いて行った。
甲蛾衆の本拠地、アリス邸は、中堅貴族並みに大きく広い屋敷となっている。
マーガレットの実家より、7~8倍ほどの大きさだ。
彼女自身の屋敷がないから、住みついてから5年くらいになる。
その前は、宿屋にひと部屋を長期で、借りている状況だった。
が、噂が立つ前に数回ほど引っ越しを余儀なくされた。
「はぁ、私、何やってんだろう」
と、扉をあけたら落ちた。
いい水音が立った。
マーガレット入水事故――灯りを持たずに入るからだ。
多分、助け出されたらアリスからそう、怒られるだろう。
そして、眼鏡を外されて、薄い唇に彼の奇麗な親指が当てられる。
最初は、口の周りをゆっくりと這い、下唇を指の腹で押さえつけられて、白い歯に爪を掛ける――うわあ、こっぱずかしい……溺れかけた。妄想し過ぎて足場に掛けてた足がズレかけたのだ。
《やっべ、死にかけた!!》
瞬きが早くなる。
もう一度、冷静に思考する――なぜ落ちた?! 灯りがなかったからだが、助は来るのかが一番の問題だ。
ぶるっと肩が揺れた。
股下にやや暖かさが広がる。
《あ……》
◆
“雷槍”の賢者の周りには、精々数えて15~6人の鬼人たちが付き従っている。
一見すると、武人かと見間違う感じの雰囲気はあるのだが、スライムナイトを目の前にして、やや腰が引きているような趣があった。こんな不利な状況を前にして、堂々と踏ん反り返っているい一匹と、その者から駄々もれる闘気に似た殺気に当てられれば、誰も委縮して当たり前と言ったとこだろうか。
グリーンは、腰かけていた椅子から重い腰をようやく上げた。
ただ、このまま座ったままで相手をしてもいいとも思ったが、武人としての所謂、矜持とでもいうか、何となくだが――一寸の虫にも五分の魂みたいなものか。
「ふん、大層な口を――」
握り直したはずの槍が手元から消えている。
利き腕の中に獲物が無いという事実が受け止め切れていない。
「なるほど、重さも長さも、確かにいい塩梅だが...俺には少し軽いな。もう少し、そうだな重心を穂先側に持っていきたいところだな」
と、賢者の真横に立っていた。
これは闘技場のすべての者が目を丸く、皿のように見開いている。
いや、他のスライム2匹は、眠たそうな表情だった。
「い、いつの...」
「いつの間にってか? これは瞬歩。そうだな縮地というスキルに似ているか、系統は同じだが、タネを明かせば、瞬きと同時に動き相手の死角に移動するものだ。絶え間ない反復の訓練の成果と言えるかな」
わりと淡々と話す。
言葉でするっと呑み込んでくる感覚で理解すれば、スキルというより技術だ。
手品師が視線を集めて誘導し、そのスキついて仕掛けを施すのと同じような修行の成果と言える。グリーンの場合は至極簡単そうな雰囲気で語ったが、これは一朝一夕の話ではない。
縮地で移動できる距離には限界がある。
術者の身体能力がソレだ。
では、瞬歩は――瞬きのひとつで差を縮めるのだという。
グリーンと対峙していたのは、せいぜい10数メートルだ。
他人から獲物を抜き取りつつ、真横に並ぶ。
可能だからそこにある。
「賢者だのなんだのと、寝言は寝て言うものだぞ?」
賢者は、腰の太いベルトからナイフを抜き取ると、ノーモーションのままグリーンの脇腹を強襲する――乾いた金属の弾けた音と、大地を滑る音が同時に響いていた。
「っ痛ッ!!?」
「ふむ、並みの剣士いや戦士ならその抜刀は避けられんな...うん」
確かに感心しているが、上からだ。
グリーンは、ベルトから抜いたナイフの柄頭を、掌底にて叩き落とした。
そのまま、足元に突き刺さる筈の短剣をつま先で弾いて、取りに戻るには難しい距離に放っている。その際、勢い余って賢者の手首まで粉砕してしまっていた。
「おっと、こりゃ失敬」
「ば、化け物かっ?!」
「ああ、その判断は間違っていない。が...いや、済まない...こちらが期待し過ぎてしまった。勇者飯の守番の連中の方が、遣り甲斐があったなと思ってな」
賢者の表情も曇る。
いや、彼も従者と同じようにひきつったように怯えて見えた。
そうだ、こいつも同じ顔になっていると、グリーンは悟った。
「ば、バカ野郎! あんな人外な連中と比べるなっ!!」
――だ。
“月の城”の中では、脳筋という戦闘狂だが、それはパーティーを組んでダンジョンなどに潜る際に“盾役”が居ないとバランスに欠けるからだ。だから、当然、職業は魔法使いから極力外れることのない、魔法剣士という枠内にある。
例えば、“貝紫色の丸楯”や“緋色の冑”も、本職の戦士や剣士、騎士を職業としているものと比較すると、明らかにひ弱である。
“月の城”の戦士とは、魔法力を背景とした強さで計られるべきものであると、叫んでいた。
彼らの苦しくも自分たちが如何に我儘なことを言っているかを自覚しながら、叫んでいる――もう、苦し紛れだったから記憶にさえない。
「ああ、そうか...なるほど」
賢者の真横でグリーンが詩片を口ずさむ。
と、同時にもうひとり遅れて到着した“天弓”という賢者が『伏せろ!!!!』大声で、怒鳴るいや、叫んでいた。
闘技場に入るや否やに身の丈をも超える長さの長弓から、つがわれた魔法の矢が放たれている――“マジックミサイル”と。
◆
「光よ」
マーガレットはガタガタと鳴る口の中で、深い闇を照らすために光属性魔法を唱えた。
が、彼女の頭の直上から、ライターがふってきた。
「?!」
古代語詠唱なので、発音を間違えた模様。
何度、詠み直してもライターが降ってきた。
「きぃー!! 光芒よ!!」
と、叫ぶと。
ひらひらと紙片が降ってきた。
昔の答案用紙だ。
どこから引っ張り出したのか不明だが――『ああ、そういえば昔、試験中に解答用紙失くしたんだっけ』と、こんな時期に召喚していたんだと気がついた。合点はいったが納得は出来ない。おかげで、不正行為とか言われた挙句に、追試を受けさせられて女子寮のトイレ掃除ひと月を喰らった。
しかし、考えてみれば『ああ、私がこんなとこで召喚したからか』と、複雑な心境に陥った。
またまた、足場から引っ掛けている足がズレそうになった。
「ツル、足がツル!!」
必死にしがみついている。
しがみつきながら、もう何度目かの放尿で心も折れそうである。
「も、もう...!!! 我が意に従え、閃光を!」
強烈な光属性攻撃魔法が放たれる。
外は、夜だ。
風呂の支度をしなさいと、メイド長に仕事を言い渡されたマーガレットが、行方不明になって早3時間ほど経過している。
屋敷中の使用人らが、総出で彼女を探していた。
当主であるアリス本人もだ。
マーガレットは、放ってはおけない危なっかしいところがある。
目を離すと、どこででも寝る癖がある故、何故か気になってただの使用人だと割り切るには流石にできないでいた――。
その捜索の最中、工事中の新しい厠が爆発した。
家人すべてが現場に行くと、水溜まりに浮いている彼女が発見された訳だ。
「と、まあ...そういう話です」
お忍びで現れた皇帝に、ドジっ子の娘の話を告げている。
彼女が不思議時になることも、なぜトイレが吹き飛んだのかというのも話す。
「で、どんな娘なのだ?」
「そうですね、一見すると芋っぽい田舎娘です。故郷で婿を探した方が良いと思いますよ...ですが、素材は悪くないんですよ...線が細いかなあと思ったんですがね、これが館の風呂は混浴なんですが...わりと肉付きの良い、まあ、よく言って丸み」
少し、口元を緩ませて――
「あ、いや、寸胴にまな板かな...脇と背中の肉を集めてたんですから、偽乳ですし...そばかすがなければ可愛いかもしれません」
「ほう」
《...酷い言われようだな...》