-664話 才知の攻防 ⑪-
帝国皇帝として即位してからの10年は、駆け足だったと振り返っている。
彼に自分の人生を振り返る余裕は、実はまだない。
ラインベルクの一日は長いようで、短い。
時間的な問題と、彼の個体数という問題だ。
例えば、起床前から政務に必要な、事前承認の書類が寝室の机上に山積みにされてある。
結局は、寝る前に目を通してしまっておいて必要と不必要を分けておいた。
寝室の机上にあるのは必要な書類で、これでも全体から見ると僅かと、言われる量だ。普通の官吏なら卒倒して、そのまま引退するような量だった。
今のところ、侍従長と医官あたりが、就寝時間の短さを憂いており、皇帝の寿命が縮まらないかと心配の声をひそかに抱いている。また、ラインベルクは30前という年齢であるため、妃か或いは寵愛の女官でも傍に置かないかというやや、色と艶の面でも心配されていた。
侍従長あたりは、男好きでも構わないから――と、やや母親的な思いも抱いていた。
と、まあ、それだけラインベルクの周りに艶が無いのだ。
ただし、政務となると人が変わったように熟している。
例えば、執務室と謁見の間に、のそのそと現れるラインベルクは、いつもの日課のまま玉座にあって、ただ只管に誰かの陳情を聞いてから――『担当大臣に取り計らってもらい、万事ことを成すように』――なんて声を掛ける。
まあ、幾通りかのテンプレートではあるが。
玉座の間から皇帝が居なくなると、突如、皇帝は執務室にて書類の山に埋もれていたりするのだという。この辺りは目撃情報が少ないので、本当にいるかどうかわからない――皇帝が実は、何人もあって、それが高度な命令で動くゴーレムなのではないかという噂が上ったことがあった。
「余がゴーレムと申すか?」
やや不機嫌そうに微笑みを讃えた彼が、官吏たちの前で指の腹にナイフを当てて、その場で“血”を流すというパフォーマンスを見せたことがある。その行為ひとつで何人もの首が飛ぶところを――「バカなことを申すな?! これらの者たちは国の宝だぞ! 人を簡単に殺させて堪るか!!!」と、激昂して見せて人心を集めたというエピソードがある。
まあ、これはおよそ演出であるが。
実は、皇帝には本当に生き写しのゴーレムがある。
しかも、高度な命令ではなく単純な命令しか受け付けない出来損ないだ。
例えば、稼働条件と、稼働時間に制限があり、命令の保持と実行プログラムは1日3回までという。しかも、これを毎夜就寝前にリセットしてから再起動させるまでにきっちり7時間かかるという不便さが10年間だ。
まあ、本人曰く『本当に今まで、よくバレなかったものだ』と言っていた。
ゴーレムが学習した内容は、必ず本人が就寝前に、各ホームを回ってゴーレムの経験と情報を回収し、共有化を図ることをしなければならない。
でないと――「そうだ、国防大臣...いつだったか、ウォルフ・スノーの義弟に送る兵だったが、あれはやはり10万で良いな」――と、数日ズレで同じ内容の問答をしたという、大失敗を引き起こしている。
まあ、その時は――「いや、最近、質のいい睡眠が取れていないせいかなあ」――なんて苦しい言い訳に終始したという。
そういう茶目っ気のある皇帝ライフだ。
が、本人はその場合、気が気ではない。
さて、実のところ当の本人は普段、どこで何をしているのかというと。
甲蛾衆の館で、メイドをしてのんびり過ごしている。
仕事をしないメイドであり、毎日、眠りこけているアホな子を地で演出いや、演じている訳でなく過ごしているのだ。
一応、メイドとして就職した経緯は、貴族の子弟であるとした。
預かる側がこれに不信感を抱かせないようにしている所は、策士、ラインベルクであった。
が、少しやり過ぎてる感は否めない。
《また、寝てる……》
と、アリスは花壇の中に突っ伏して、足だけ見えるメイドを発見した。
恐る恐る近寄ると、花壇の水やりをしているところ睡魔に襲われて、葦の森にでも埋もれるように倒れ込んでいる状態だった。
《この娘、なんか病気なんじゃなかな?》
ウイッグを付け、牛乳瓶の底板みたいなレンズの眼鏡を掛けたそばかすだらけの娘。
年齢的には、適齢期であるのに貰い手がなく、頭の中が花畑の子であると紹介されてあった。
アリスは、そのメイドのスカートの端を摘まむと、捲ってみた。
「マジかよ?!」
唖然とするほど色気も何もない地味なパンツを履いている。
まあ、むしろ老齢なご婦人のようなじみーなパンツだ。
《チョイスが最悪だな》
言いたい放題だが、メイドの方は本当に爆睡中で仮に、アリスが悪戯もかねて服を剥いても、覚醒する事は無かっただろう。
《だが、こんなところに放置するのも...後見人としての立場もあるし...》
結果、仕方なく彼女を担ぐことにした。
アリスは女装家である。
もう少し言い方を変えると、女装を趣味とする男の娘というジャンルの人だ。
魔法少女マルと同類であり、かつての仲間でもある。
女の子のひとりやふたり、担ぐのは朝飯前であるが――「何だ?! 思ったほど重くもない...感覚的に40と数kgといったところか」と、呟くほど軽かった。
見た感じ、ぽっちゃり体系に見えておばさん臭い雰囲気がある。
「うぅーん」
アリスも驚きの寝返り。
甘ったるい声で鳴き、ふくよかな胸が背中に当たっている。
担いだのはいいが、背負うのではなく肩に担いでいる――これは、荷物ではありません。
頭が下にあるから卒倒するのも時間の問題だろう。
「こ、こいつ...なんて甘い声で」
ドキッとしたのは胸中に納めることとした。