-657話 才知の攻防 ④-
黒い何かが水柱を上げて降ってきた。
それが、飛竜ゴーレムから落ち“落とし物”だと知るのには幾らもかからなかった。
マルからの請願によって、カッターが船から出され、失神している人を救出する。
それからの事は簡単だ。
マルも、鼻を一つまみして――「マルちゃんも飛びまーす!」と言って、降ってきた。
それを同じ船で拾い上げて母船に戻ったのである。
「いきなり降ってくるなんて...」
海上で救出された剣士のケアをしているのは、魚たちである。
いや、魚人という亜人種だ。
人の姿だとやや、皆、助口に出っ歯、顎のしゃくり具合が気になる人々だ。
皆が似た顔だから、気になる衝動はすぐにおさまるものの。
剣士が運び込まれた船が、南洋王国の水軍籍のものだとは、マルが乗り込んだ後に知らされた。
「いやあ、ごめんね...剣士君せっかちで」
と、マルには普段とは見られない口調で、魚たちに紹介された。
「まさか、余所行きと身内とかで口調...変えてる?」
剣士は恐る恐るだが、マルに問い詰めた。
彼女は目を丸くして――
「まさか、そんなの面倒じゃん」
と、返答しているが、明らかにのびのびした雰囲気のマルの姿があった。
マルには、スパナで後頭部を叩かれる心配がない事。
奔放すぎることで、小言を挟み込んでくる心配がないというのも大きい。
今、彼女は、久しぶりの自由を満喫していた。
3人姉妹ではない、ひとりの解放感をだ。
◆
船の目的地は“南極”である。
この地には腕のいい職人の宝庫であるし、魔王軍の関係者という事だけで――「仕方ねえ、店の奢りだ好きなだけ食っていきやがれ!」なんて気の利いたことを言う店主も、少なくはない。
傍から見なくても、これは立派な脅しである。
別段、魔王軍がそういうい裏で嫌らしいことをしている訳ではないが、まあ、誰かの貸しや、借りなどの消化に繋がっていて、まあ、早い話便乗しているだけであるのだ。
マルが――ではなく、誰かが造った貸しで――飯を喰らう。
これが1回や二回ではないところに、根の深さがある。
「まあ、あれだろ...人の褌で...」
マルが突如大きな声を出して遮った。
半魚人らも聞こえないフリをしている。
「剣士君はバカですか?!」
真っ赤に光る眼を向けるマルがあった。
鼻息と、口から甘い香りがする――恐らくは、唇に塗ったリップの物かもしれない。
剣士は迫ってきたマルの目の前で瞼を閉じていた。
「な、何?!...何のつもり???」
「いや、いい匂いだなあと」
聊か不機嫌に吊り目になっているが、剣士にはそのマルの表情は分からない。
「もっと近くで話してくれ...聞き取りにくい」
「...ちょ、え、もっと近く...って」
と顔を近づけると、露骨に唇が重なった。
マルは驚きのあまり、剣士の胸を強く圧し飛ばすように動作した。
が、反対にマルが甲板を大きく転がっていった。
目をくるくる回して、口が三角に尖っている。
「やっぱり女の子の唇って柔らかいよな」
ぺろりと舌なめずりを見せたのが聊か癇に障る。
別段、ファーストキスではない。
が、それでも心の準備と言うのがある。
「うむ、リップじゃないんだ...じゃ、甘い香りがするのはマルちゃんの体臭かな?!」
顔が真っ赤になる。
いや、身体全体が熱く火照る感覚だ。
「た、た...体臭って」
潮の香りもあるかもしれないが、一番近い匂いは“苺”のようなほのかな甘みだ。
「舌を絡めてみれば良かったかな」
マルは耳を赤くして俯き――
「槍使いさんにも同じことを?」
「いや、あいつはキスが苦手だからいつも、額や頬に軽くな...エサ子は揶揄い半分で口の中に親指を入れると、八重歯をつかって器用に絡め舐めてくるんだよ...ま、それが可愛くてついな」
と、からからと笑う。
マルにだって、キスへの耐性はない。
メグミさんはキス魔でもあるけど、マルの首、鎖骨、肩(...服の下に隠れるような当たり)などを責めてくる。胸の脇なども隙を見せれば、軽く吸ってキスマークの痣を残すのだ。
ただ、この吸い口が優しさに満ちたもので、お腹の下あたりがムズムズと疼くことになる。
「...」
俯いて、何か呟いている。
剣士はそっと近づいて耳を傾けた。
「と、唐突は...怖いので...もっと、いえ、や、優しく...」
所謂、お願いである。
耳だけでなく、首の後ろや背中も少し汗ばんでいた。
「へえ、マルちゃんってそういう出方をみせるのか」
剣士の所作を槍使いが見ていたら、恐らくは釘バットで殴られていただろう。
はっきり言えば、今、浮気真っ最中なのだ。
“南極”までの航海はざっくりで2~3週間の行程だ。
飛竜ゴーレムで直接乗り込んでもいいが、入り口は海中にあるから魚人らが操船する船で出入りした方が楽である。また、近くに幽霊船の船着き場もあるから間違われて、水死体だと思われうっかり拾われると、それはそれで面倒だった。
だから、船の移動ということになる。
恥ずかしがっているマルの両腕をそっと掴む剣士が、耳元で――大丈夫、この航海で俺の印象を変えてみせるよ――と、惚気たようなセリフを呟いていた。
マルがこの言葉を真に受けたかは定かではないが、瞳の真ん中にハートマークが浮かんでいたのは事実である。
剣士渾身のチャームスキルの発動だった。