-652話 帝国との交渉 ③-
帝国軍は“アクハール”領にあった。
皇帝自らが率いる40万の大兵力でだ。
その殆どには、皇帝自らが“戦争はない、故に軍事演習と思って、過度な緊張を張ることは無い”と、伝えたという。
見せかけとしても、物凄い動員力である。
近隣の領主たちの殆どが、皇帝が来られることに歓喜したというのだ。
演習といっても、その興奮が陰ることは無かった。
「皆は少し、鼻息が荒いな?」
予想していない訳では無かったが、やる気があって結構だと思っていた。
聖櫃の騎士らとは少し趣が違う。
「陛下は暢気で在られますな」
「そうかな?」
使者の話から、総長への耳には“脅し文句のひとつも向けなかった”というものだ。
「脅しても良かったのでは?」
格が違うのだと分からせるべきだと告げた。
が、皇帝は左手でハエを払うような動きを見せ、
「脅しか...彼らは、意図を汲みとれないほど阿呆な者かね...ならば、私も人を見る目がなかったという事だろう。時間と用件だけで伝わった筈だから、ほれ、グラニエ卿の首はここに届いてない...そういう事だろう?」
口角を上げ、微笑みを浮かべた。
ラインベルクとしては苦笑しただけだったが、総長にしてみれば失笑されたように映っている。
この差異が後に反目として表れることになる。
が、それはもう少し先の話である。
◆
バルカシュ城は、主が変わった途端に明るさを増したように、最初の印象とはだいぶ違って見えた。聖櫃の騎士グラニエには、ひとつの客間が用意されて白い敷布の上に、仰向けで天井を眺めている。
「護衛の者らを帰して良かったのか?」
戸口にあるのは、短槍の騎士。
獲物である槍は肌身離さず持ち歩いている。
手で持つか、或いは背中に背負うかの類でだ。
「必要ないだろう。もう少し殺気ばっているかと思ったが、杞憂だったよ」
「そういうものか...で、流れとしてはどんな感じだ?」
彼は、交渉の席に立ち会っていない。
城の中を一通り歩き回ったクチだ。
敵場偵察と言えば、それらしく聞こえなくもないが、単なる散歩である。
「そうだなあ、感触としてでいえばあれ以上を望むことはない。皇帝陛下の案件を呑むだろうと、言ったところかな。甲蛾衆と言ったか、あれはよく調べているよ...」
敵対している覚えはないが、良くも思っていない。
帝国の至宝として挙げるとすれば、甲蛾衆は間違いなくその言葉を冠するに値する者たちと言えた。
「ほう、君が褒めるのは珍しいな」
「敵に回した時は厄介だぞ?」
帝都の法院に詰める賢者はもとより、孫娘の方も助けるのが難しいという意味だ。
聖櫃の中でふたりが非戦闘員にちかく、失うと痛い存在である。
「回ることは...」
「あるだろうさ、目的が違える日があるから」
さて――と、声を発する。
ベッドから跳ね起きると、グラニエは、交渉の席へ向かうと短槍の騎士に告げ部屋を出る。
彼はその背中を見送った。
《導師と邂逅して少し、当りが変わったかな...》
◆
「――捕虜交換に際して、こちらからも少し色を付けたいのですが」
最初の席とは違って、六皇子が饒舌に口を開いている。
軍師の同席はなかった。
「ところで...」
会合の序盤でも同じ流れになったが、皇子がその場を強引に交渉の席へと戻してしまった。
が、場も中盤に差し掛かると、雰囲気は随分と柔らかくなっていた。
「何か?」
「軍師殿の御姿が見られませんが...体調が優れませんか」
皇子らは目くばせでもするように、左右の役人らと顔を突き合わせ、
「いえ、全く...女性ですから、何かと気難しいのでしょう」
と、障らなかった。
これ以上、彼女に触れると煙たがれるような印象を、グラニエらに植え付けさせた。
「いや、これは失礼した...で、追加案件とは?」
「慰謝料いや、違うな...見舞金と...そんなところを付与して頂きたい」
双方で瞬きが多くなる。
口に出した方も根本的に分かっていない。
言われた方も、同じだが眉根を吊り上げ何かを察したようだ。
「即答はしかねますが、持って帰って検討させていただきます」
と、告げてきた。
「...それとですなあ――」
◆
自室のメグミさんは嗤い転げている。
マルと、ヨネも同じ部屋にあって彼女の豹変ぶりに心底驚いて身を寄せていた。
「どうしたの突然!!」
ふたりの声がかさなると、本当によく似たトーンだと分かる。
二人の容姿も似ているから、見分けるなら頭のアホ毛の数でしかない。
1本がヨネで、2本がマル、アホ毛が“Sの字”なのがエサ子だ。
いや、あれは寝ぐせだった。
「交渉の場に私が居ないだけで、彼らの不安を煽り......」
「とんでもない嫌がらせだね」
マルが呟くと、おでこを握った拳でぐりぐり捻じられた。
これがわりと痛い。
「マル姉ぇー!!」
ヨネは、弱弱しい声で鳴いた。
「えっと、で...不安を煽ったところで、奴らに突きつけてやった訳よ! 金と労働力を寄越せってね...帝国の奴ら、面食らって言い返しも出来やしない」
最低だと――ふたりは思う。
だが、冷静に考えてみれば、長姉の策はまんざらでもない。
捕虜交換といっても、帝国に囚われた北天の兵らは幾らも残っていないだろう。
地下にあった怪物のエサになったと、捕虜たちが告白しているからだ。
その時から、メグミさんは帝国に戦争犯罪を償わせる機会を狙っていたことになる。
ただし、相手がどう捉えるかで、この要求は流れる可能性もある。
下手をすれば、バルカシュ領の外側にある帝国が、雪崩れ込むことだってあった。
そのリスクを皇子には話さなかった。
「で、お姉ちゃんが嗤い転げたって事は...」
「そう、呑む気は分からないけど、意図は理解した」
無言のまま、ふたりは頷く。
ふと、ヨネがメグミさんを仰ぎ――「また戦争に成らないよね?」――と、尋ねた。
が、返事は返ってこなかった。