-649話 マルの休日-
水桶の中にピンク色のスライムが浮いている。
マル本人だ。
沐浴中であり、考え事をしている。
ちゃぷ...
水音をひとつ立て、潜った。
底は浅いが、手を入れれば手首の上4~5センチメートルくらいは深い。
スライムであれば、大きさを変えて桶のそこまでゆうに潜れるだろう。
水中から外を見る――あの時と同じだ。
自分だけの世界しか持っていない、あの時と同じ。
水槽タンクのガラス越し、或いは深淵から覗き返した時の――同じ。
「お姉ちゃん?」
桶の中のマルは、人の気配に声を掛けた。
「わりぃな……期待させちまったか?」
剣士だ。
エサ子の兄だという男だ。
ただの人間で、ひ弱な方の人間だ。
もとは、メグミさんもそっち側だった。が、マルと関わるようになって、いや彼女が望んで、人間であることを止めたことの方が重要だ。あちらから、こちらに来た新しい魔物が彼女だ――素養は、全くの運であるから、例えば中二病をこじらせたように、世界最強の力を手に入れると宣言したところで、ゾンビになるかドラゴンになるかは“世界”に委ねられている。
そこに本人の何らかな、ステータスの介在があるのだとしたら、それは運でしかないだろう。
リアルラックだけが、超レアの低確率を引き当てる。
誰もが努力と引き換えにはできないステータスをだ。
「俺は強くなりたい」
純粋な悩みだと知るのに少し時間がかかった。
エサ子は守ってもらうようなタイプの子ではない。
彼女の姉を自負する槍使い(女の子)も、およそ似たタイプであろう。
「もっと努力をすればいい。いやするべきだったと今、気が付かされている。スキルの取り方も鍛え方も、セオリーだけに捕らわれず、俺のペースに合わせた、俺なりに工夫された構成で。ああ、わかってたんだ。だけどさ」
愚痴だ。
誰かに聞いてもらいたかったものだ。
ただ、人じゃなければ誰でも良かったというものでもないらしい。
「悪魔に魂でも売る気?!」
マルは、水面に顔を出して問う。
これは申し出ではない。
「……結論から言うと、剣士君の肉体的キャパシティは、もう決まってるみたいだね。取得した無駄スキルがボタンの掛け違いみたいに、バラバラで相反しあってるみたい。見たところ、2、3個組み換えができれば、ステ面にボーナスが付与されて、一瞬だろうけど爆発的な効果も期待できないわけじゃない」
マルの紅く光る目から見れば、瞬時に理解ができる。
この時、マルの目は皿のように見開かれている状態だ。
水面が揺れると、目に当たってやや痛い。
「それって」
「期待しないで聞いてほしいけど、転生でもしない限りはステ振りはおろか、スキル取捨選択は難しい。もちろん転生をして、今の記憶を保持できるかなんてのも、天文学的な数式になるだろうからギャンブルでしかない。最悪、“なんで今、”とか“自殺するってことは、”なんて皆を悲しませる結果につながる」
無謀だと言いたかった。
今のままでは、ちょっと強い冒険者止まりなのは仕方ない。
銀札か金札の冒険者が最高位だろう。
それでもギリギリの実力者という立ち位置だ。
槍使い(女の子)の方は、彼よりももっと上にあるだろう。
白金札か或いはという世界。
まあ、こればかりは天の采配なので仕方のないことだ。
「でも、君なら抜け道を知っているんだろ?」
《そうきたか》
マルの下に来た理由を知り得たり――と、彼女自身が納得したように目を細めた。
自分自身の限界を知った時から、何かを捨てる気で悩んでいたようだ。
槍使いとの蜜月が遠のくのは、自身が男としての魅力に欠ける否、頼りがいのある者ではなくなってきたと、思い始めたからだろう。
事実は逆だ。
魔人たちからセンスのない田舎武者が、いくら励もうとも獣王の御傍で、太刀持ちなどが務まる訳がない――と、蔑まれたフレズベルグが、直々に鍛錬メニューを考えた稽古を黙々と続けている、剣士の背中を見て槍使いもやる気になってしまったのだ。
まあ、火が付いたといってもいい。
同じ戦場で背中を合わせて戦えるようになりたいと。
そう、思ったのだ。
しかし、これが剣士に届くには、肌の重ね方が甘かったという訳だ。
結果的に逆に捉えてしまっている。
あれは俺を“疎んじている”と。
「もっと話し合えば?」
最後にもう一つ、マルは押しとどまるよう声を掛けた。
人間を辞めるために、捨てるものの代償は余りにも大きい。
彼は首を横に振った。
決意は固まっているようだ。
◆
帝国からの使者だと名乗ったのは2回目だ。
戦後処理のどさくさに何処かへ消えた折からすると、やや5、6日は経ている。
使者だと名乗って、ようやく彼らの本当の狙いを知覚できた。
相対するのは、メグミさんと六皇子だ。
この二人が対峙してなお、グラニエは辺りを挙動不審に見渡している。
卓上の下や壁際の水桶の中なども入念にだ。
「あの...?」
六皇子が心配になって声を掛け、それをメグミさんに封じられた。
「マルなら、ここに居ませんよ」
探しているのがバレバレだった。
聞かれてまずい話をするわけではない。
この行動は、聖櫃が話をするに値する相手が、皇子なのか軍師なのかを見極めるためのものだ。
グラニエは、使者に立つ際――“導師に気をまわし過ぎていましたが、もっと怖い相手があちらにはいます”と、総長に伝えている。
それがメグミさんだ。
かつて制御不能だった紅玉姫を見事に操っている女性。
しかも、ただならぬ威圧力を放つ者である。
総長と同じく魔法剣士とも言った。
「飛び込まれても困ると思いまして」
「そんなに彼女が怖いですか?」
問いかけられ、彼は、口元を歪めるだけに留めた。