-627話 北バルカシュ海戦 ㉞-
「アーチボルト、君が...女の子ではあるが...」
値踏みするようにメグミさんの視線が、彼女の四肢を捉えている。
胸はまな板、やや尻の肉付きは薄く、肩幅も幾分か狭い――申し訳ないが、男の子だと言い張ってしまえば甲高い声も別に気にもならない。もっとも、少年の声は皇子とその従者たちくらいしか聞いていないことも幸いした。
「と、まあ...ネコになれ!」
「はぁ?!」
冗談でしょ? という声が出なかったわけではない。
いや、むしろというか案の定、ふたりから無理、だって魔法が使えないもんという声が挙がった。
確かに魔法は使えない。
しかし、使える相手が施術すればいいだけの話だ。
巫女は『にゃあ...』と、鳴けばいいだけの話である。
◆
「それで、この妙に可愛らしい丸顔の仔猫が...」
六皇子は不思議そうに見つめ、アーチボルトを少年として扱うことに承諾した。
「はい、あの少年です」
事情は簡単に説明したが、少年が六皇子の妹姫だということは伏せている。
いや、話してしまった方が良かったかもしれない。しかし、その事について少年は懸命に口を閉ざすようメグミさんに請願した。猫の姿の時である場合、肉球を握られることも、匂いを嗅ぐことも、想定されるすべての恥ずかしいことをされても『にゃあ』と、泣くこと以外の抵抗しない――あまりメリットのない条件を全部飲んで口を噤んでもらっている。
メグミさんの事だから、およそ、勝手に話しかねないと思ったようだ。
話されて困る理由として、純真無垢の女の子でありたいという見栄だ。
男の子になって初めてしたことは――立ちションだった。
いわゆるすべての女の子がTSして思う、やってみたいことアンケートNo.1である。
あとは、いくつかランキングは下がるものの、自慰行為であろうか。
すでに賢者タイムも経験済みだ。
「君が何もかもすべて差し出した理由は分かっている」
猫にむかって話しかけるメグミさん。
前足の付け根、胸のあたりから手を当てて引き上げている。
身体はだら~んと、伸び切って四肢の指が大きく広がっていた。
「ま、人の弱みこそ甘いものはないよな」
メグミさんは、ネコの腹に顔を埋めて匂いを満喫する。
◆
奇妙な声で鳴く、やっぱりどっから見ても奇妙な生物が、街に迫っている緊迫した状況は未だ解決に至っていない。恐ろしい声で鳴くのではなく、羊のような鳴き声に似ていた『メェェェェ!』だろうか。
心もとない城壁に駆け上がる二人の騎士は、舌打ちをうつ。
「城主のヤツ、やっぱりとんでもねえ化け物を隠し持ってやがったか」
仔羊は3匹ある――城内にはまだ、2匹残っている。
ヤギだか、ヒツジのような鳴き声でのそのそと近づいてきた――歩き方がとにかくバランスが悪い。暫く低い天井と、狭い檻の中にあった為に幸い歩き方も、走り方も忘れている手合いの物だ。
これで、狩りも忘れていてくれているのであれば、身体の硬そうな生き物程度に見えるだろう。
ふたりの騎士が獲物を握りなおしていると。
城門の外にはクロネコを頭に載せた、戦士の姿があった。
倭刀を腰に提げた、長身の剣士――深紅のローブが風にのって、ふたりの騎士の視界から、吹き飛んだのを目撃していた。その剣士の背を紅玉姫と誤認するほど似た気配を放っていた。
「導師?!」
「いや、違う...」
同じ匂い、似た佇まい、寒気が突き刺さる殺気に代わる気配。
マルのようで、マルとは違う寒気がある。
《抜刀! ア〇ン・ス〇ッシュ!!!》
「は?」
横一閃の胴払い。
鞘の中から俊足で抜き放った刀は、虚空を切っている。
化け物との距離はまだ少し先だが、変な金属音だけ聞こえた気がする。
――ザムっ
楼閣の戸板に倭刀の折れた刃が刺さった音。
左翼に立っていた、短槍の騎士の頬より左際を通過した。
耳の下の頬を思わず触れると、ぬるっとした冷たさを感じる。
「や、ごめーん!」
城門外からの声だ。
主は、クロネコを頭の上に載せた剣士である。
「い゛いえ、お気になさらず...」
◆
城門外から楼閣の二人を見上げるとしても、事前に出会ってなければ、誰何の判断は難しい。
自慢の業物という訳ではないが、倭刀専門のユーザーに打ち込んでもらった一品ではあった。
刀がなまくらでは無いとすれば、己の技が未熟という道理だろう。
「折れるかなあ」
「巫女ちゃんの目ではアレが何だか分かる?」
頭上のクロネコは、くったりしている。
メグミさんというある意味、別の化け物の殺気に充てられているからだろう。
やや無念そうに、折れた倭刀を見つめる。
攻撃されたと知覚した仔羊の怒りも頂点であるから、標的は人間からメグミさんへと切り替わっていた。そもそも彼女にとってそれが狙いであった。
「抜刀術!!」
再び倭刀を鞘の中に封じる。
左足を後ろに引き、半身へ深く前傾姿勢へ。
腰を落として、瞼を閉じる。
放つ殺気は迫る仔羊に向けていた――メエエエエエェェェェ!!! 化け物の嘶き。
《一閃! 次元斬り!!!》
たぶん、最初の真一文字に踏み込んだ薙ぎ払いと同じものだろう。
対象との距離があったのか、初撃の一刀は硬い外皮層に弾き返されて、刀自身がダメージを食らったものだ。が、二度目の一閃は、視界に捉えた空間に、亀裂が入ったような錯覚があった。
まるで、蜃気楼が真っ二つに断ち切られてたような感覚がある。
その先にある魔物がぎこちない動きとともに、上下に分かれて左右それそれに沈み込む。
後に、ゴバッと黒い体液をまき散らしていた。
追われていた帝国兵は、“ウルジ”の街に入城するなり、剣を棄てて投降する。
足を止めた軍監らも、数百メートル先の肉塊に息をのんでいた。
「また、化け物かよ...」