-624話 北バルカシュ海戦 ㉛-
鼻先にぶら下げた人参に漸く手が伸びた化け物は、斥候の一群を喰らった。
その後を追っていた軍監らは歩みを止めて気配を殺すよう、指示をする。
魔物が、後方の数万と前方の生き延びている数騎を品定めしているからだ。
気配という単純なのではなく、明らかに捜索スキルが放たれた気がした。
魔物が立ち留まり、後ろを軍監らを伺う素振りも見せる。
「音を立てるな」
軍監は、周囲の兵士に声を掛ける。
その傍から、逃げ出す兵もあった。
舌打ちさえも憚れた現場。
◆
魔物が発したユニークスキルは、かなり広範囲に影響を与えた。
それは、距離にすると数キロという単位までに及ぶ。
僅かに後方の軍監を認識するように視線を交えた気がした。が、魔物は振り返るのをやめた。
そして、鳴いた。
雄たけびにも似たソレは、城の地下にある他の2匹を興奮させたものだ。
「な、なんだ?」
突如として走り出した化け物に引っ張られる魔物使いたち。
「あ、あの方角は...」
指をさす方向に街が見える。
“ウルジ”があった。
「誘導は成功です」
兵士は安堵したようにため息をつく。
だが、軍監はそれどころではない――あれが、解き放たれた事実のほうが問題だ。これをどうやって散歩から檻に戻すのだと、そういう事で頭が真っ白になっている。
攻撃して、傷つき、最悪でも死んだら...
「まあ、そうなったら北天の...」
戻ってきた化け物に兵士が食われた。
軍監らはその兵士の下から、蜘蛛の子を散らす勢いで離れていた。
《あれは、恐らく耳がいい...いや、感覚的に何をどう言われているのか直感で動ける》
と、すればこれは大きな問題だ。
少なくとも、兵士5万人は憎悪と、嫌悪に満ちて“勝手にくたばれ”と思っているということだ。
それでも、ウルジを目指すのは、そちらのほうがエサが多いからである。
《ジレンマだ。町が落ちれば、今度こそ我々がエサになる。しかし、子羊の成り行きを目撃せずして、帰参することもかなわない。やはり、間接的にでも目撃が必要なのか...》
独り言ちながら、頭を抱えた。
周りを見れば、兵士の顔はおびえる市民のそれと同じものが浮かんでいる。
「これで戦争? いや無理だな...」
◆
ハティは、獲物の柄で剣士の胸を小突いた。
彼は普段の青銅の鎧ではなく、厚手になめした皮革の鎧を身に着けていた。
騎士フレズベルグ卿の教えでは“常在戦場”という大きな括りがある。
いかなる時も油断は大敵という意味だ。
別に、慣れ親しんだ甲冑でなくてよいと説いた。
いや、達人の域ともなれば、武芸者は獲物を選ばずという言葉に倣ったものだ。
だから剣士も状況を想定して、目に留まった獲物を用いて戦えるよう訓練を積んできた。
今まではブロードソードでなければ、剣技が使えなかったが、デッキブラシでも知覚領域の範囲を広げ、抜刀術を繰り出せるまでに成長していた。が、本人はそれでも満足していない。
ハティに小突かれたとき、その知覚範囲発動中であったのにも関わらず、彼の予備動作さえ気が付くことができなかったからだ。
「何事ですか?」
「今は大事故、俺の話はまた別の機会とするが...」
目の浮かぶ怒りが見える。
肉食獣特有の凄味だろうか、圧を感じられる。
「もしや?」
「何か、とてつもなく禍々しいものが来た」
子羊の気配は、数分ごとに大きく迫っている。
ハティでさえ悪寒がすごい。
ともなれば、目の前の剣士は人であるからなおさら、寒気病気を疑うレベルである。
「もうひとつ...」
「なんだ?」
「もうひとつ東から来てますね...」
体を半身に東へ開いて見せた。
その方角には、ヨネが向かった門の方である。
「確か、メグミ殿が来ると」
◆
「メグミ姉さま」
いらっしゃいと、声をかけるのも変な感じだ。
別れてから幾日もたっていない。
「その分だと、交渉はうまく運んだとみていい?」
「ええ。十分といった形ですね...でも、イレギュラーな対応に追われまして...」
メグミさんの頭が西へ向く。
「あれ...じゃないよね」
禍々しい気配はどこに居てもよくわかる。
ヨネは苦笑しながら、
「あれじゃないと思うけど...多分、関係がないとは言えないと思います。あ、マル姉さまは?」
「マルちゃんは、おとなしくしてると思うよ」
とは、言ったもののそういう自信はない。
マルが大人しくしていたことなどは殆どないからだ。
「ま、たぶん大丈夫」
「うーん...心配ですね」
「ヨネちゃんが帰ってみる?」
「いえ、私が交代すると治癒士居なくなって、このパーティ崩壊しかねないので」
メグミさんも簡単な治癒魔法は習得している。
ただ、ヒーラーと呼ばれるような称号にまでは至れない。
彼女はどちらかというと、魔法剣士なのだからだ。
アタッカーであるエサ子も、治癒魔法は持っているが、自分を対象にした自己回復スキルだ。
他人を快癒させるようなものは持ち合わせていない。
そうなると、治癒専の魔法使いが必要になるのだ。
特に――西から近づいてくる悪寒の正体に対抗するためにも。
「そういえば、あの少年のことなんだが」