-623話 北バルカシュ海戦 ㉚-
自制の利かない化け物は、斥候として集団の前にあった兵士らを追うように走り出していた。
いや、最初から鼻先に吊るされた人参と同じだったのだ。
城主の施した術式は、鎮静剤と同じような効果でしかない。
人より大きな、あるいは鬼人やキメラなどの大型獣には、ある程度の効果がある。とは、言っても大きさによって術式は変化するものだから、およそ三階建ての聖堂と同じような大きさであった、化け物にはどだい足りなかったのだ。
歩き出して2、3時間。
よくぞもったとも思えなくもない術式から覚醒した、仔羊は、斥候の馬を追った。
斥候もウルジに向かって走るしか術がなく、結果的に彼らは手に負えない化け物を交易都市にぶつけることになったのである。
◆
“助けてくれぇ!!”
帝国兵士の悲痛な叫び声だ。
交易都市“ウルジ”は、声が風に乗って流れてくる前から地平線の向こう側に異常なものを目撃していた。地上三階建ての聖堂のような大きさを誇るものだから、禍々しい瘴気が煙のように立ち上っているのが見える。
板壁と簡素な見張り台くらいしかない防壁だが、それでも自営用にセーカー砲くらいが設置された砲座はある。交易都市という金を武器にしている都市国家の強みである。
帝国臣民としての扱いを受けていない――彼らは、帝国へ朝貢することで不可侵を得た都市国家の市民である。バルカシュ城塞城主によって帝国は、“禁”を侵して盟約を反故にしているが、朝貢は毎年行われ続けている。
武力を背景にされれば、ひとたまりもないからだ。
そして、再びバルカシュ城塞側は“禁”を破りに来た。
此度は“ウルジ”国の存亡の危機という事態である。
都市政庁に人が殺到する。
これは、近い記憶だと、エルフ兵を返り討ちにしてしまったことへの報復だと皆の意識が向いた結果だ。政庁からは一言も、北天七王国と同盟を結んだとは告げていない。
およそ、これを市民に伝えれば余計、自暴自棄になっただろう。
政庁では、押し寄せる人々を捌くので手一杯だが、都市防衛の機能は切り離され、独自の判断が出来るようになっている。
その機能に六皇子の姿があった。
いつも通り、首筋にちかい後頭部を軽く掻く癖を出している。
これは考えている姿勢――その背中を少年が見ていた。
《こんな状況でも、兄は絶対に見捨てはしない...》
少年は、胸中で呟く。
◆
エサ子は深刻そうな表情で、洗面台にあった。
珍しく大人し気な雰囲気でだ。
ここ最近は、大口を開けて高いびき、歯ぎしり、一見すると中年のオヤジみたいな雰囲気で、爆睡モードだった。年頃の少女がどうして、みっともない寝姿になれるのか不思議なくらいに思えたものだが、そのエサ子が定刻よりも早く起きて洗面台にあった。
左手にパンツの端をもっている。
「如何がなされた?」
ハティも洗面台を使いに現れたクチだ。
狼面に戻っているので、顔を洗うのかは微妙ではある。
洗面所は共有スペースである。
「パンツ脱げてた...」
「あ、はい...」
自分で脱いんだだろ?と、思った。
およそ、水桶のヨネでもそう思うだろうが、彼女は数刻前に水桶から飛び出している。
メグミさんを迎えに行ったからだ。
今、洗面所には、半刻前から呆然と立つエサ子と、一寸まえに訪れたハティしかいない。
「ご自身で脱いだ記憶は?」
ストレートに尋ねた。
首を横に振り、膝上まであるロングシャツの裾を手繰り寄せて見せた。
シャツには“Quick”と、ロゴ打ちされてある。
「...はあ、履いてませんね」
見せなくてもいいと思ったが、エサ子は生ちっろい腹まで手繰り上げて見せてきた。
ハティの目の前には、年頃の少女の予想以上に真っ白で、ぽっちゃりと幼く見える身体がある。
もう少し上まで上げれば、胸元まで見えるだろうところで彼女の手を止めた。
「閣下」
閉じかけた瞼の隙間から、エサ子を見下ろす。
「お腹がベトベト...」
絞り出した声だ。
少しだけ半泣きなのは、どうしたらいいか分からないからだ。
「よし! 閣下、今から私と一緒にお風呂にいきましょう!!」
「え?」
「温泉の後は、メロンパンを買いましょう!」
これは精一杯のフォローだ。
ハティなりのケアでもある。
「でも、男女別だよ?」
変なところで冷静だ。
「あ、いや...混浴もありますよ! いや、私の権限で、無理にでも...」
必死なハティを見て、エサ子は噴き出しながら嗤った。
癒されるような笑顔を見せた。
「そんなにボクの裸、見たいの?」
「...い、いや、これは...参ったな」
ニーズヘッグの苦労を知る。
と、同時にニーズヘッグが抱く怒りも知る。
《閣下を泣かす奴は、許さない!》
◆
剣士は朝稽古に励んでいた。
騎士フレズベルグからの教えは一つ――“想定武芸を磨くこと”である。
陽が上る刹那の時間が一番暗い。
星の光も薄くなるからだ。
その時間に這い出してきて、墓石を林立している敵兵士とみなし、立ち回りを研究している。
街の外にある墓は、街中よりも土地がある分、好き好きに埋めている。
その為、墓石や墓標の位置が整然としていない為、好きな想定で自身を置ける利点があった。
“人を断する時は、剣の重さを利用すべし”
両手剣は、想像を絶するほど重い。
刀身の殆どが鋼である。
斬ることを目的としない剣といえば最早、ハンマーと同じことだ。
しかし、乱戦では振り回して使うのでは使用者も厄介である。
振り回されている。
フレズベルグは、剣士には片手剣の片刃を与えた。
“身体を使いなさい、小さく動いて最小に、そして素早く俊敏に、死角から急所だけを突く”
言うは易し――それが、想定武芸を磨くことに繋がる。
この言葉だけで、剣士は毎夜、技と気持ちを磨いてきた。
好いた、エサ子と槍使いを守れる騎士になる為だ。
そこまでして初めて、気配を知る。
「禍々しい?!」