-620話 北バルカシュ海戦 ㉗-
「戦だと? 貴殿は、何か? 帝国領内に敵がいると...」
急激に冷めていく様を感じられる。
城主は振り上げた拳を腰の下に提げた。
「冗談は止せ、兵が見ている」
見ているかどうかは不明だ。
しかし、少なくとも殴られた伝令兵は呼吸が浅く、鼻が潰れているように見えた。
この彼の状況では、城主を、自身の視覚で知覚することは難しいだろう。
「最悪を考慮すれば、少なくとも遭遇戦に発展したものと考えるべきでしょう」
踵をかえし、倒れている兵士に治癒魔法を施す。
軍監としても、臣民である兵をほっとく訳にはいかないからだ。
「遭遇戦? 何者にだ?」
激昂が再び戻る気配があったが、吹きこぼれる湯の方が無い。
空焚きみたいな状況だと、城主の精神が疲弊するだけになる。
少し前にも同じことがあって、2、3日寝込んだことがある――原因は、連続した“お怒りモード”に突入したからだ。その原因はエサの少なさ、質の悪さなどが起因していた。
「北天か或いは、魔王マル・コメなる新たな存在にです」
甲蛾衆の軍監は、首を垂れる。
とうとう魔王ウナ・クールを差し置いて、主人公が魔王になった。
魔を統べる者としての称号よりも、この場合は破壊者としての認識だ。
「根拠は?」
「ありません。が、エルフで構成された仮にも騎士団です。数の問題では無く、質の問題で肉袋如きがエルフを排除できるとは考えられません。彼らは借りに出たのですから」
軍監にとっても推測さけの判断だ。
肉袋も徒党を組み十分に訓練を積めば、プロの殺し屋になれる。
これは西欧で人間を指揮した甲蛾衆の軍監なら、共通認識として持っている当然の知識だ。
しかし、その十分な訓練というのは、一朝一夕ではない事も知っている。
自警団程度しかない交易都市に、果たしてエルフを退かせることが出来るのかという点だ。
少なくとも幾らかの帰還兵があっても良い話だ。
首を垂れながら、ふと思慮してた――殲滅された? いや、城主を納得させるために、あり得ないほどの最悪を口にしたが...だが、しかし。ひとりも帰ってこないものか――。
「軍監」
「...っは、はい」
「ウルジを焼け!」
唐突に頭の上から妙な言葉が降ってきた。
面を上げて城主の顔を見る。
「今、なんと?」
「仔羊を連れて、散歩に出よ...うむ、目的地は“ウルジ”が良かろう」
警戒態勢を敷くのではなく、報復に出ろという話になっている。
しかも、城主の顔から感情が抜け落ちていた。
何か淡々とした雰囲気で薄ら怖い。
「兵は好きなだけ持っていけ、道中のおやつになれば良いな」
◆
“ザイン”の街には多くの軍馬が集められている。
20万の将兵の中には、騎兵もそれなりにあるからだ。
その内の一頭の背に、メグミさんは鞍を載せていた。
「どこ行くの?」
食材を求めて市場に向かう途中で、姉を見つけマルが寄ってきた。
「ヨネちゃんを迎えに」
「それなら...」
マルの口をメグミさんが封じた。
瞳が優しく光る。
「大丈夫、マルちゃんの出番はここじゃないから」
押しとどめられた。
マルがふてくされる前に視界のすべてを姉に置き換えた。
重なる唇、絡む舌、そして何か飲まされ喉が上下に動く。
「はい、即効性のデバフだから、暫く寝ててね」
口腔内で生成した睡眠誘導魔法の口渡しである。
呑み込めば、即発動して急激な眠りに落とされる。
効果はまちまちといったところだろう。
マルが覚醒すると、その場にメグミさんの姿は無かった。
◆
魔王マル・コメを知る関係者として、帝国は“国境なき傭兵団”の投入について騒がしくなってきた。既に捕虜としていた者たちが、収容所から逃走していることも軍議に掛けていた頃合いだ。
スカイトバークは、王国制を強制的に廃止させられ、帝国直轄地へと変貌していた。
その地に、カーマイケルとラージュの姿があった。
「マル・コメあるところに事件ありか...」
事件は、世界のあちこちで起きている。
大きくクローズアップされないのは、帝国が取り上げないからだ。
南欧方面の形勢は反転した――北天のカスピ海艦隊が“ティヴェア”王国を攻め滅ぼしたからだ。地中海では、帝国と魔王・南欧諸国連合、北天・ティヴェア連合の三つ巴が生じている。
他では、西欧戦線が数十メートル帝国側にラインが動いた事だ。
これは明らかに、衛星国側の体力問題が原因のようだ。
「世界は動いてますよ」
ラージュは、カーマイケルに淹れた茶を薦める。
すっかり夫婦のような雰囲気があった。
「帝国の包囲網がこれだけ効いているのに、何故だか折れそうにない気がしてな」
「...さて?」
「杞憂で済めばよいが、圧せていると思っている時が一番怖い時だ。相手のことを客観的に見ないと手遅れになるやもしれん。いや、今も注目を気を反らして...」
世界中の注目は、魔王マル・コメ降臨というニュースで持ちきりだ。
この手の情報は魔王軍にも持ち込まれている。
当の魔王軍では歯牙にもかからなかったようだが、魔王軍を底支えしている魔界本国と、協力国には聊か嫌な音色が聞こえたような気がした。
「そろそろ脱走者とも合流の頃合いか」
「はい、ご主人様」