-610話 北バルカシュ海戦 ⑰-
ゲストルームとは別の空間に設けられた、姉妹の部屋で蘇生されたマルは気恥ずかしそうに、隔壁構造の前にあった。人差し指と中指の先をを甘噛みするように咥え、変な息使いの状態で壁を見つめている。
「大丈夫ですか?」
スパナで豪快に殴りつけたメグミさんを前に、ハティはマルの状態を問う。
そうしないと、いけないような気がしたからだ。
「心配性?」
「あ、いえ...ふたりがすっかり怖がってしまって」
剣士は、壊れた蛇口のように無意識で放尿し、槍使いは格納庫内で嗚咽交じりに鳴きだしたというのだ。そのケアに従事したのは、スライムナイトの3匹らである。
「あらあら、こちらが恫喝かした事なのに...」
コロコロと微笑む目の前の女性を見て、ハティの尻尾も下がっている。
《やべぇ、こいつらサイコパスだ》
◆
西城砦の兵舎から飛び出した十数名は即時に鉄砲を展開し、射撃体勢を取る。
と、同時に双方から『待て!』という、言葉が響いた。
陽も落ちた城内の広場は暗い。
篝火は城壁側にだけ灯されている。
その中に飛び込んだのは、夜目として十分に暗闇に慣れたから。
素早く展開すれば、敵の警備兵あたりは道連れにイケると踏んだからだ。
鉄砲はマスケット、連射の利かない先込め式滑空銃身であるから、一発撃ったらただの棒に成り下がる。およそ銃撃となれば数の少ない鉄砲火力は、弓よりも鈍器として使った方が幾分かマシという類のものになる。
だからこそ、機先を得るためにあえて敵地に飛び込んだ。
――待て!
鉄砲隊の眼前に積み上げられた躯の防塁から聳える、磔台がある。
磔にされているのが城主だったからだ。
敵方よりの“待て”は、城主の命は我らの中にあるというものだ。
味方からの“待て”は、単純に静止するものだった。
先走った若い兵の暴走を止める班長のものだ。
篝火が広場を照らす。
城の上階部分が見えないように態と、光をすべて下階に集めてある。
上階から見下ろすと、昼間以上に明るく見える。
「さて、時を掛け過ぎは、わるい癖だな?」
賊徒から上がる声。
種族としてはほぼ、同じ鬼人族だ。
角の大きさにこそ差はあるが、同族種で間違いない。
北天の人々は、額の端に2本の角を持つ。
前髪を下ろすと見えなくなるのが特徴である。
「くっ...な、何者だ?!」
班長は、抜け道を出て食糧庫から声を掛けている。
200人の兵も移動を終えて、格納庫で準備を整えていた矢先、“先に失礼!”と飛び出した若い兵士が、光の中に呑み込まれているところだ。全員が夜目に慣れた頃にこの、光芒の集中砲火は視力低下を誘発し、副次的に痛みさえ伴った。
「済州島の者だよ」
済州島の乱というのがあった。
それほど昔でもないが、激しい内乱であったので覚えている者が少ない。
帝国とは辺境での小競り合い以外は、これといって大きな戦を百年以上も経験していない北天の中で、記憶に薄く思い出したくもない内乱があった。
それが、済州島の乱である。
また、この乱の後に“甲蛾衆”が表舞台に躍進してくるのだが、それはまた別の話である。
「残党か?!」
北天には記録はおろか記憶さえ薄い。
名乗りを上げた者たちでさえ嘲笑が聞こえるほどの状態だ。
「ざ、残党? お、お前ら本気で言っているのか...」
「...」
「北天は、常勝無敗の大帝国と本気で思っているのか!」
周囲からすすり泣く声が聞こえる。
悔しさからきたものだろう。
「城主を解放してくれ、こちらは...」
「武装を解除し、投降するというのか? いや、お前たちはそう言った、我らの導師に弓を射かけた前例がある。我らが貴殿らに“待て”と命じたのはこの磔を見せる目的ではない...」
サーチライトが磔台より、鉄砲隊の方へ更に集まる。
若い兵士の視界はゼロ以下となった。
――散れ!
班長が叫ぶのと同時に轟砲が響く。
あらかじめ上階にある敵兵より鉄砲が射かけられたものだ。
四方八方からの攻撃、過剰なまでの火力がただ一点に注ぎ込まれた。
「な、なぜ...そこまで」
真っ白な世界に、激しく弾ける血の花が班長を含めた残りの兵士たちに焼き付けられた。
「投降してくれてもいいが、こちらは貴様らを殺す。北天の民と名乗る者らを殺す!」
恐ろしいまでの憎悪がここにある。
◆
「もうすぐ、バルカシュ海の領空に入ります」
機長より報告といった風に告げてきた。
技師による交代制で操縦してきたが、比較的良好な旅だったと振り返る。
ハティの脳裏に過るメグミさんの微笑み――背中がぞくっとした。
槍使いは、まだ、グリーンのケアを受けている。
彼女への精神的な負荷が懸念された。
剣士は、格納庫の隔壁から明後日を見ている。
流石にその年齢で失禁は、触れられたくない心の傷になったようだ。
「ドンマイです」
ヨネは、剣士を励ます会を設立させ、他2匹のスライムナイトで彼を慰めている。
「みんな、何があったのかな?」
蘇生されたマルの記憶も一部白紙になっていた。
スパナによる殴殺の影響だが、殴り殺す必要は無かったと思われている。
実は、メグミさんによる、マル似の女神を呼び出すための儀式みたいなものだ。
当然、契約者が瀕死なので女神が召喚された。
呼び出された彼女とマルを、メグミさんは喰らった訳だ。
彼女の嗜好の為に。
「姉上は、本当にマル姉が好きですね!」
ヨネは、メグミさんからスパナを回収している。
「あら、ヨネちゃんも混ざりたい?」
「ええ、出来れば」
仲間外れは、流石に寂しいですから――なんて言葉をつづけたが、本心ではない。
蘇生魔法の習得は、ヨネの最終目的であるからだ。
これが、ロードの血統である。