-605話 北バルカシュ海戦 ⑫-
「ほう、それで貴殿らの野営地とどこへ向かわれる?」
六皇子の斥候だと名乗った将校は、ふたたび池の水を盃で掬い上げている。
池の水は、近くの村で酒つくりにも利用される名水でもあった。
「西城砦を目指す予定にござる」
近年、バルカシュ海の北東に四日で築城させた“三夜城”なんて呼ばれ方の砦がある。
大群を逗留させる設備はまだないが、前哨基地として機能は十分に備えているというのが、帝国軍の見立てである。これを本陣として野戦の指揮所とする使い方であれば、よくできた城という認識で、これらを枕に籠城戦には向いていないようだ。
帝国の見立てとして、野戦等の指揮能力では黄天の六皇子を置いて、右にも左にも並ぶものはいない。もっとも、その下に幾人かは適性のある将帥を散見するが、脅威とみなす相手ではないというのが、彼らの評価である。
蜀王国の末皇子も陸戦、とくに騎兵戦において特化したスキルを有する。
曲芸騎行とでもいったものか、とにかく神出鬼没の輩だという認識と評価を受けていた。が、先の戦いで落馬して、酷い怪我を負った。今は、養生のために魔法院の病棟に、その身柄を確認することができる。
また、燕王国の遼公二太子は、剣盾兵を率いている。
帝国との直接的な交戦記録はないものの、甲蛾衆の索敵範囲にすっかりロックオンされている人物だ。もしも、黄天の六皇子と同じ戦場に立った場合の脅威度という査定を受け、北天の名だたる武侠にランクインした逸材だという。
器量がよく、才気があり兵法にも通じるとか。
わりと高い評価があるものの、遼公国から出たことがないというのが弱点である。
帝国の上級将校らの声の一つに『そのまま、宝を腐らせておいてくれ』ものがあった。
「ほう、西城砦ですか」
「あの周辺は、泥濘が多く砦を囲い込むには聊か、困難にござる故。背後を気にせず戦える点が大きいですからな」
盃の水を池に戻し、斥候は立ち去った。
超軍の斥候は怪しむことなく行軍中の隊に戻り、同隊の将帥に“六皇子が存命”という報せのみを伝えた。士気は大いに高まり、本国との暗号文も実際、斥候同士のやり取りを明かさなかったものの、分かりやすい反応の文章が送信された。
この通信は、ザインで身を潜める六皇子も、バルカシュ要塞の密室でも傍受されているものだ。
交わされた内容に皆の顔色が大きく変化し、六皇子の眉間に皺が刻まれた。
「どうした?」
少年が問う。
アーチボルトという猫が鳴く。
「不味いな、カマをかけられたようだ」
北天の暗号は、蜀王国が転戦している各地域で、多用されたものを長く利用してきている。
魔法院の錬金部では、黄天の依頼で複数の新しい暗号が開発されているのだが、全軍に浸透させるまでに至っていない。各地に魔法使いがあって、国力の差によって魔法使いの力量にも差が出る以上は、彼らの能力や属性による魔法暗号はかなり脆弱である。
帝国が本気を出しさえすれば、新しい暗号も半年で使い物にならないものとなるだろう。
それを数年も使っているのだ。
バレていないと思うのは間違いだということだ――「このやり取りは、誘いだな?」
皇子が皆に問う。
彼らの目にギラついた武人の光がみえる。
帝国の流した偽報に北天軍が乗ったということと、逃亡中の六皇子一派を炙り出す目的のものだ。
「行かなければ、全滅必死ですかね?」
「見殺しにも出来んな」
行けば必ず包囲されるだろう。
猶予としてもそれほど時間はないようだ。
「彼らの目的は...ザインより南になりますね。西城砦に入るのだとすれば...」
「城はその前に陥落させられている。敵が占領しているところへのこのこと、軍が入った後に城門を塞ぎ、火計にしろ水計等で仕留めれば兵の数など問題なく我らの大敗で幕が下りる。(...陸戦で)負ければ、国は信を失墜して戦争を続けられなくなる...」
戦争を早期に終了できるのならば、それでも良い。
だが、この降伏は国としての立場を危うくするものだ。
おそらく北天は解体されるだろうし、戦争犯罪も帝国式で追及される――王国貴族、とくに六皇子らも対象になることは間違いない。彼自身はそれでもいいと思っているが、妹巫女はそうあってほしくない。
また、“月の城”の連中も追及を受ける前に逃走するだろう。
いや、単純に身代わりとして妹巫女を差し出すかもしれない。
だから、こういう負け方は寛容できないのだ。
「仕方ない」
潜伏はもう止めだ――という意味が入っている。
森の中にある兵がぞろりと動く。
今まで単なる置物っぽい雰囲気のものまでが皆、一斉に重い腰を上げたのだ。
岩だと思ってたのは、デミオーガだった。
草木の背景に溶け込んでいたのは、ドワーフやエルフ、デミジャイアントも交じっている。
「じっとしていると、根っこ生えちまうな」
何処からともなく、そんな声が挙がる。
◆
航海中のスループに秘匿交信が入り、進路“島亀”から北北東へ流すよう促された。
島亀に逗留しているニミッツからのものだ。
マルの依頼で船の進路を変えてもらっている。
「流せか...目的地もなく船を走らせるのは気持ちが悪いな」
船長は独り言を呟きながら、甲板の操舵士の下へ急ぐ。
ただ、余り北へ寄り過ぎると地域を占領したばかりの北天水軍の哨戒範囲に入りかねないリスクもある。北天は、高空からの目という索敵システムを用いて広範囲に周囲を見渡している。
この範囲に入ることもスループは嫌っていた。
「流すですか...」
「ああ、生真面目に北を行かんでもいいだろう。この辺りを東に進もう」
舵輪を握る航海士と、船長の頭の中には海図がある。
周囲には身を隠せるような島影はない。
多少、霧の出る地域があっても、魔法使いから逃げるすべにはならないだろう、というのがふたりの見解だ。
ゲストルームにあった客が甲板に上がってきている。
荷物は少量で樽がふたつ。
黒衣の騎士、女槍騎士、剣士と小動物は樽の中だろう。
「どうしました?」
いや、険しい表情のハティを見てそう、告げざる得ないほど緊張が走った。
「あ、いや...何となくだが迎えが来る予感がってな」
予感というより、エサ子に繋げられたテレパシーだ。
彼女の薬指に光る魔法の指輪――マルが友達になった証で、授けたマジックアイテムの類。効能としては、わりと単純なものだが初心者プレイヤーと、熟練者プレイヤーには重宝がられるガチャ景品だ。
STR3%UP
VIT5%UP
LUK8%UP
DEX2%UP
INT5%UP
※レベル制限なし/追加効果として、熟練者装備時は全体補正値が2%UPに減少固定される。
また、装着者同士には距離に関係なく、心意交信スキルが付与される。
と、いう指輪が珍しく光ると――『そっちに飛竜を飛ばした。じきに到着するから、その後は機長らに手筈を整えて貰って』一方的な通信だったが、何となく理解は出来た。
「ハティ、もうすぐ来るよ」
樽の中からエサ子の声が聞こえる。
隻眼のハティの残った瞳が碧に光って見えた――来たか?!!