-599話 北バルカシュ海戦 ⑥-
スループの上甲板に上がると、エサ子の仕事は、デッキブラシで甲板を磨くことから始まった。
ヨネは、船医室にて看護師見習いをしている。
これが、彼女の仕事である。
船医からも“腕が良い”と褒められたヨネは、船医室務めが決まった。
「背中、痛いよ~」
エサ子はうつぶせになると、ヨネのスライムマッサージを受けるいつもの姿になっている。
「姿勢が悪いからです」
「ハティはどんな仕事?」
スライムのつぶらな瞳が、隻眼の騎士に向いている。
興味津々な雰囲気があった。
質問者は、マッサージの方に溺れている。
「まあ、船賃を払いましたら...私たちは、客です。仕事なんてありません...」
「は?」
「いえ、驚かれても...樽と普段から仕事してた、私たちとの差ですよ」
剣士と槍使いも、客人として自由に船の中を歩けている。
◆
魔王水軍の船種はざっくりと多かった。
もう旧型になったジーベックも“幽霊船”だの“亡霊船”いわれても現役で働いているようだが、前線からどんどん離れて行っていると、船長は話してくれた。伝令あるいは監視や警備等では、スループのような小回りの利く船が重用される。
このスループも大きさで随分と、趣が違うのだと語った。
「上を見上げてください」
白い帆が青い透き通った空に映えて見える。
思わず“美しい”と呟くほどにきれいだった。
「こちらのスループは2本マストです。前からフォアマスト、メインマストと続き、トップセイルとコースセイルだけで構成されます。水軍内では小型の船でして、警備艦の枠から出ることはないでしょうな」
と、解説されてもハティは、隻眼だけになった瞳で白い帆をずっと眺めていた。
小さいといっても、全長は30メートルちかくある。
積載された砲も16門と決して少ないほうではない。
「警備艦でもこれほどの武装が必要なんですか?」
剣士は船長の後ろを歩いている。
槍使いは疲れたので、ハティとともに風を感じていた。
「はい。常在戦場がモットーですからね...これでも少ないほうですよ、何せ相手が同じ規模の船とは限りませんし。徒党を組んでいる可能性も捨てられません――」
「仮想敵は、やはり」
「帝国ですか? いえ、この場合は海賊です。動きが鈍い輸送船は、どの国の水軍も狙われやすい。そこにこうした船が警備しながら航海するんですよ」
やや誇らしげな雰囲気があった。
おそらく自慢の船を語るのに軍人や民間人というのはないのだろう。
船長が微笑む顔にはたくさんの皺が刻まれていた。
◆
“超”王国から進発した軍は、およそ20万もの大軍となった。
途中、“蜀”の境で兵力と物資を調達したからだ。
足が恐ろしく太く体の大きな馬は、荷馬車を引くに最適なものとして改良されてきたものだ。
今は、攻城砲という火砲を引くのに利用されていた。
だから人の数並みに馬も運用されている。
騎兵が1万もあれば、軍馬が1万頭あるという計算。
で、あれば消費される食糧秣の類は、概算を出していた七王国の財務大臣を唸らせた。
「馬鹿馬鹿しいほどの消費量だが、帝国の財布は一体どうなっているんだ?!」
そんなことは誰も知らない。
すでに七王国は、国家総力戦に突入している。
予備役の兵もかき集めて西に送るか、北へ送るかで悩むような状態だ。
西のカスピ海方面は、当面の間、現地調達の水軍力で賄う必要がある。
北部は、バルカシュ海の先で橋頭保が作れるかにかかっていた。
先ずは一戦である。
「いやいや、戦をする前に飢えそうだ」
補給線が長くなると、輸送そのものに時を費やしてしまう。
馬を使えば、輸送部隊を動かす人員と糧秣が別にかかるという話だ。
「財政破綻もやむなし、南無三...」
「縁起でもない」
「だが、悠長なことは言ってられん。賢者殿たちはどう思っているかは知らぬが、バルカシュ近郊で支配力を見せつけなければ、足元を見た強かな商人たちから、言い値で売り付けられ、尻の毛まで毟り取られかねない状況だ。また、やっと鎮めた反乱の目さえも再燃させかねないと分かっている以上は...」
「嘘でもいいから結果を、見える形の成果が求められるということか」
大臣たちの会合。
結論はもう出ている。
帝国から領地を切り取るという、勝利しかありえないということだ。
これが難しいことは数字の上からでもよくわかる。
軍の差配などがわからなくてもだ。
「黄天の六皇子殿がせめて指揮を採られておられるなら、希望の持ちようはあるのだがな」
失笑。
手鼻を咬むような音が入る。
◆
島亀の都市は、今まさに大盛況だ。
帝国臣民が避難民というゲストで逗留している。
マーケットがこんなに賑わったのは、魔王ウナ・クールという少女が就任1年目に視察で訪れた以来かもしれない。
彼女は、魔王として今6年目に入っている。
巻貝を背負っている海人が、魚介類を売る――異様な空気が流れているし、ちょっと買いにくい。
魚っぽい海人も焼き魚を勧めてくる、喰いにくい。
二枚貝や巻貝のアクセサリーは、飛ぶように売れている。
ちょっと珍しい真珠もあった。
ぱちぃーん
なんかいい音が店の裏から聞こえた。
気になって覗くと、人魚の頬を魚人がひっぱたいている。
こぼれる涙が真珠に変わる瞬間を目撃した。
「こ、これ...暴力の?」
「いえ、暴力ちがう。生産ですよ」
と、ごまかしているのがバレバレだ。