-575話 第一次 カスピ海海戦 ④-
「ああ、この高揚が溜まらない。人が焼ける匂いに興奮する...悲鳴に胸が躍る、乳首が固く、腹の下がぞくぞくする...堪らない、堪らない...堪らない。もっと、嗚咽を交えて叫びなさい、もっと妾を興奮させておくれ...」
甲板に髪の長い女が立つ。
周囲は炎の海だ。
北天先遣艦隊は、50隻で“ヘラ”島に視認可能距離まで迫った。
そして今、帝国の6隻から一方的な攻撃を受けて大損害を被った処だ。
「あ、ああ...なんか、萎れてきた感じ。もっと濡れていたいのに」
なんて、変な声を出している。
木の燃える匂いの中に、硫黄の臭いも混ざる。
所々で小爆発が起きているし、沈みかけの僚艦も多数ある中、女は肩を落として頭てっぺんの触手がひゅんひゅん回っっている最中だ。やる気がなくなったわけではない。
消火活動中、救助中の味方の行動を目撃して心底、吐き気を感じているところだ。
「ちょっと、そこのあなた! そんな負傷者燃やしなさいよ!!」
まあ、言っている意味がまったく、意味不明である。
「しょ、なんで助けるのよ! 回復魔法が勿体ないじゃない。そいつの悲鳴に悶えてた私の濡れ場を返しなさいよ!!!」
こっちも何を言ってるんだと、皆が訝しむ。
変態の女は、何かが吹っ切れたように前髪をたくし上げた。
《水よ、わが意に従う水よ...現世より来て妾の敵を撃ち滅ぼせ!》
詠唱詩片という魔法だ。
もっとも、これが一般的なもので例えば、マルの諸動作が発動起点となって“魔法名”だけで術そのものを具現化するのは天才の領域である。また、北天とその流れを汲む地域で発展した、法術あるいは鬼道は、巫術や符術をもって魔法を召喚する技術である。
魔法と法術は似て非なるものと思っていい。
甲板に立ち、打ち立てあがる白波を被りながらの彼女は、賢者としての異名を“水巫女”と呼ばれている。まあ、これは単なる通り名であるから、本人が巫女のような聖人君子とは限らない。
ただし、水属性においての冠位は。ひとつ究極まで極めた実績を持っている。
これだけでも、彼らの組織内ではかなりの実力者として記憶されていた。
召喚した水の精霊は、船団の頭を押さえたとして遠ざかっているさなかにあった。
その船団の後を追っているのが精霊であった。
水属性は、一つの体系の中に召喚士と、学者、導師へと別れる。すべてを習得すると、収集するスキル量によって生存や人生設計に必要なスキルを取りこぼす恐れもあって、なかなかそういう奇特いや変わった者は居なかった。
いや、あっても途中で、他の褌疾走者組と毎回フィールド上を駆けまわっている中途半端な冒険者になっていただろう。
“水巫女”は、そいう轍を踏まずに己の欲望のままに“召喚士”となった。
そして彼女の放った一撃により、6隻のうち後方の2隻が海のうねりに呑み込まれてしまう。
手ごたえはある。
彼女の召喚した精霊が人の命を吸った感触をだ。
呼び出すと、術者の手の甲に令呪が刻まれるという――これはかつてのゲーム仕様と殆ど変わっていない。むしろ、ゲーム内では飾りだった令呪に、祈りを捧げればそ一つを消費して術者の考えた通りに動いてくれるという副作用にも驚かされる。
「け、賢者ど、どの?」
傾いている船の縁に提督がある。
やや、ひきつった表情だ。
「退避を...」
「あのさ、どれだけ残ってる?」
「え? な、なに...を?」
「だからさ、上陸部隊と船の数」
提督が減りから身を乗り出して、周囲の状況を見る。
今、救助活動をすれば助かるだろう友軍の絵がみえた。
「半数が救助を求めて...」
「聞いてなかったかな」
何を言っているのか理解に苦しむ。
船乗りである以上に人であるから、目の前に燃え上がる炎の向こうに友軍が遺されてある。
少数であり、砲門数が少ないからと侮った事で、敵船からは受けなくても良かった砲撃をしこたま貰った形で大惨事になっている。
で、あちこちで助けを呼ぶ声が聞こえているのだ。
「しかし、助けなければ...」
「幽霊船が来て掃除してくれると考えれば、海はいつだってきれいだよ?」
通じていない。
提督を遮って舵輪を握る航海士は、吠えて噛みついた。
「我らは船乗りです!」
突如、彼は甲板を攫う大波に呑み込まれて落水する。
「もう一度聞くよ? 残りは」
「12隻...です。いや、多少船足に問題は残りますが」
「その問題ってのは」
「...っ船底の水密区画の一部が浸水して、船足がいつもの4分の1ほど落ち込むとの連絡が...」
その船が今、救助活動中であることを告げた。
まあ、彼女は表情を変えることなく。
「船を降りるわ...」
と、告げた。
◆
帝国の4隻は、水面から覗く異様な目に追われている最中だ。
見るからに爬虫類のような不気味さがあり、違和感より恐怖が先行して逃走しているところなのだ。陸を目指して走るにしても、浜へ向かって座礁させたのち、内陸の密林向かって走り切れるような大型の島はそうはない。
“ヘラ”島でさえ、その砂浜付近に軍属の人々が出張っているわけだ。
仮に思い過ごしで、島へ逃げ込んだら追ってこないのなら問題はない。
だが、そういう代物とも目の異質さには、大きな違いがあったような気がした。
「仕方ない...」
「どこへ?」
「島亀の領海をニアミスで抜ける!」
戦隊長の決断は思いのほか早かった。




