-573話 第一次 カスピ海海戦 ②-
帝国の前哨基地“ヘラ”に集められた船は、搔き集めても5~6隻だ。
ブリッグタイプだと2隻しかない。
砲列は1層、砲数は18門といったところだ。
水平線に白い帆影が見えたという報告は、島の一番高い山に設けた灯台からのものだ。
その数が次第に増え始めると、同地からの声は震えて聞こえはじめる。
結果的に灯台守から見える船団数はおよそ、見えるだけで30以上という。
「本国からの返信は...」
司令官の声も震えている。
歯がガタガタと悲鳴を上げるものではなく、久しく感じえなかった武者震いのようなものだ。
彼の瞳の奥に炎が見える。
「いえ、未だに...」
帝国としては“ヘラ”島を失う事は極力ではなく、絶対に避けたいと考えている。
が、地中海からでは遅く、一番近い港でもやはり10日はかかる――報告を受けてからの返信、となればいずれにせよ都合、2週間は最低でも見積もって貰うほかないというのが回答だ。
これは、現地司令官も理解している。
しかし、現実問題は絶望的だと言わざる得ない。
「援軍は来る...いや、敵は待ってはくれんのだろうな」
集めた軍艦で奮戦しても、いいとこ時間稼ぎにしかならないだろう。
島が占拠されるまで籠城しても、帝国の船相手となると持ち堪えたとして3日。いや、頑張れば4日はなんとかなるかもしれない。
希望的という不確かではなく、死に物狂いでだ。
そうして後事を援軍に委ねるわけだ。
敵船団の背後に取り付き、海の藻屑としてくれることを切に願ってならば、散れると覚悟する。
その覚悟を胸に秘め、司令官は籠手の緒を結びなおしていた。
◆
「法院より提示報告です」
と、山伏か道士のような衣類に袖を通した男が、少し目上そうな人物に言葉をかけている。
編み笠のような被り物の唾先を摘まみ上げて、
「あい、分かった」
と、簡単に答えていた。
彼は、そのまま甲板を急なつくりの階段で降りていく。
船尾の一等室へ潜り込む。
「上空の魔法士らになにかありましたか?」
少年軍師は、自らの考案した“空の目”を組織化するために、北天で最大の法術の大家、法院という魔法士の大学を味方につけている。北天の魔法はすべて法術あるいは鬼道という、呪紋詠唱で成立している。
まあ、西側の世界では詩文詠唱が一般的で、術の発動に必要な一節の詩を詠む必要があった。
この詩文には、調整されたマナの量や精度などが適量で刻まれ、術者のイメージに合わせて発動までの時間と、再始動までの時間を管理している。
いや、されているのだ。
グラスノザルツ帝国も含め、こちらの人々は間違っても、詩文詠唱のルールを破ってはならないと、教え込まれている。が、東のとくに北天は逆に呪紋という言葉を図形化ものを用いて、即時発動、連発も可能としている。
その術のすべてを蒐集しているのが法院だ。
人狼らが使う“式神”という術も、法院によって蒐集されているという。
「いや、問題はない。...問題はないが、気がかりだけは残る」
「と、言いますと?」
「報告では、その海域の南方に島亀があるようだ」
魔王軍の中継基地として、利用しているという噂は前からあった。
もっとも島亀は魔獣であるから、この生物の甲羅の上に港町を作ろうという発想は、亜人でなくても抱かない。そもそも、癇癪を起こして潜られた日には一瞬で、甲羅上の住民たちは世界の終わりに付き合わされるわけだ。
半魚人や海蜥蜴族であっても、突然、海上に家を置き去りにされるのは御免こうむりたいと考える。
そうすると、甲羅上の住人は魔王軍の関係者ということになった。
「我々の海戦に割り込んでくるでしょうか?」
「来ないとも限らんが、警戒レベルだけは少し引き上げておく。この戦いは大々的に宣伝する故、必ず勝利をつかむのだ。内陸の戦いはこの際、忘れてもよい!」
法院から“蜀”王の言葉が伝えられた。
◆
すでに、“蜀”と帝国の兵がバルカシュ要塞より北部、周囲の標高が3千メートルを超える高地で、小競り合いという名の衝突が起きている。双方ともに重度の高山病を抱えながらの壮絶なる戦いであるというのだ。
北天の高地定住者でも、なめした革張りの重鎧を着用して走ったり、伏せたり、飛び上がったりなどの激しい運動はしない。もっとゆっくり動いて、マナを感じて生きるのである。
侵攻されたのは、北天側だ。
例年であればバルカシュ海から船で強襲するのが通例だった。
いや、陽動で確かに船は来たのだが、上陸する兵はなく砲弾の雨だけが降ってきた。
この砲撃により、待ち伏せていた兵が犠牲となったものの壊滅は逃れている。
巫女の従兄である六皇は、砲撃を受けて陽動だと知覚。中央の下知を待たずして兵を“オルゴス”開拓村まで下げてしまう。
彼は後日、“月の城”の総帥に対し『いたずらに兵を死なすのは無能な将である。己の行いを臆病だと罵り詰るは一向に構わない』と、釈明している。
「六皇殿の慎重さは今に始まったことではござらぬ」
北天では王侯はみな、同列で扱っている。
王の上に王はないのだから、王族の身内も年功の序列こそあれ、身分に上下はないという考えだ。
黄天王の六番目の皇子を“蜀”人の将が庇っているのも、珍しいことではなかった。
「我が息子ながら...面目ない」
黄天王は、はやくに嫡男の皇太子を戦で失った。
以来、それぞれの皇子が適齢期になっても、皇太子=嫡男を決めかねていた。
再び、戦で失うのではないかと思っているからだ。
「いや、悪戯に兵を損失させて責務を果たしたと勘違いするよりも、よほど良いというものです」
蜀王は苦笑ぎみにほほ笑んだ。
彼の11番目の息子はそのきらいの人間だ。
「さて、そろそろ...」
「あ、ええ。蘇王の鍛えた水兵の――」
と、巨大な砂時計を部屋にあるすべての目が見つめる。