-556話 パプリカと白い熊 ⑧-
ミカエルを載せていた荷馬車は、街道の細い道のど真ん中で横転してしまっている。
二頭あった馬のうち一頭だけは絶命して馬車の下にあった。
もう一頭は、恐らく切れた手綱をたなびかせながら、どこかへ走っていったのだろう。
そして、荷馬車の周りに散乱した交易の品だけを残して人の気配もなくなっている。
「ちっ、どこ行った?!」
ゴブリンのような魔物たちが、荷馬車の周りにうろついていた。
エルザンから派遣された、冒険者たちの賢明なる駆除活動によって、すべてではないがある一定の要所での治安回復は高まってきていた筈である。
それでも、という個所では戦争こと、内戦の傷跡はのこっていた。
ミカエルは、冒険者ギルドから発行されている“通信”という新聞を利用して、所謂、安全と思しきルートを策定してきた経緯がある。エルザンの元第一皇子という身分を隠すための関所越えではなく、こういう不測の事態に対する為のルート選定であったが。
メルルの腕には、ま新しい布が巻かれてあった。
荷馬車から持ち出せたのは、緊急時の為に用意してあったバックパックひと背負い分だけだ。
他は、襲撃が突然過ぎたために諦めている。
取りに向かったコボルトのひとりも帰還していない状態だ。
暫くすると、斥候から戻ってきたスカーがある。
木の実と、ウサギを獲得していた。
「偽報の計にかかって明後日の方を探してましたが、長くはもちそうにないですね」
スカーは、メルルに木の実を薦めている。
彼女は身体を震わせながら、ミカエルの腕の中にある。
「何者かは分かったか?」
「下っ端の連中はゴブリンでした。使われ方としては、本当に駒でしかないように思います...鼻の利く連中でなくて助かったという、そんな感じでした」
洞の穴の入り口で、警戒していたコボルトが戻ってくる。
「ひと晩、ここで身体を休めたら移動した方がいいかもしれない」
襲撃されたが、ミカエル一行は戦闘をしないで逃げることに専念した。
5人で多数を相手にするのは無謀だから。
たとえ、ミカエル自身に魔人デュラハンとしての性能が約束されていても、メルルが先に狙われることは間違いない。彼女を気にして戦えるほど、器用でもないから逃げる手しかなかった訳だ。
「相手が野盗か何かの類であればいいが...」
倒れた荷馬車の中から、金目のものを漁って終わりとなる。
逃げたパーティを追撃することはないからだが。
「まあ、ここいらで隠れていても、いずれは潮目が変わりますから」
来た道を引き返すのも難しい。
しかも、襲撃者も同じことを思うだろう――仮にミカエルらを狙ったものだとすればだ。
「マル殿ともどこかで連絡を取らねばなるまい。少しでも東に向かった方がいいのかも知れんな」
と、ミカエルの言葉通りに一行は動くことになる。
荷馬車の荷物を取りに戻ったコボルトは、携えた自らの剣で胸を突かれて絶命していた。
◆
帝国は本土はいくつかの州にわかれていた。
より、格式と敷居が高いのは、聖都のみである。
ハイエルフの棲み処“ハイランド”。
次に帝国の政治的中心地“帝都”へと続く。
この上記の地域へ足を踏み込んだ先から、近衛だとか憲兵みたいな連中が、国境に張り出してきて大騒ぎになった。と、いう経験を踏まえる限り、州を跨ぐ際に“帝都”と“聖都”の渡航は、許可が必要ということになる。
また、これは勝手に外に出ることも難しいという裏返しでもある。
一方、方々を調査した結果、“国境なき傭兵団”のメンバーが収容された地域は、ドニエプルの当たりだと掴むに至った。
帝都の中でなくて良かったという気持ちと、収容先が軍事施設という事実に向き合うことになった。
報告を受けたラージュは、カーマイケルに受けた内容と同じものを伝えた。
「なるほど、魔王軍の斥候が...」
驚きはしなかったが、その調査能力には舌を巻いた。
カーマイケルは帝国のツテをフル活用して、漸くドニエプルのどこかまでを掴むに至った。
その知らせを得るために多くの金を使わされたが、ついにどこまではつかめなかった。
「場所が分かっただけでも、この場合は良しとするべきなのだろうな」
頭と心の乖離だ。
何が出来るという訳でもない。
所詮は人であるから、言われるままにコキ使われる訳だ。
「外に出れば、一挙手一投足と見張られている」
「わかります」
「だが、クラン長としては仲間の命を第一に考えたい」
「はい」
「――私は、どうしたらいいんだ」
分かってますと、ラージュは俯くカーマイケルに寄り添っている。
手首に手のひらを重ねて共に瞼を閉じる。
「ここは、魔王軍に任せてみては?」
俯いたまま、カーマイケルの瞼が開かれる。
その視線はラージュの横顔に向けられた。
「お、おまえ?」
「帝国領とて広い...どこかに節穴だってありますよ」
彼女は瞼を閉じたままだ。
祈っているという風にも見えた。
無言だが、その沈黙のなかでカーマイケルは彼女に語り掛ける――まさか、もう仕掛けたのか――と。