-546話 ハイフォン防衛線 ⑧-
パプリカが流れ着いたのは、1年くらい前になる。
ハイフォンの気風がおおらかで、住みやすさ抜群なこともあって彼女にしてはだいぶ長く居座っていることになる。もっとも、半年くらいで次の国へと旅立つ予定だったのに、今の彼女には食うために始めたアルバイトが、本業になってしまったという残念な結果だけがある。
アルバイトというのが、功夫の指導者である。
最初は、貧弱な魔法士の気分転換などを目的とした、ラヂオ体操だった訳だ。
そのラヂオ体操が本格的に取り入れられた本当の理由というのはのは、訓練生の中から“魔法剣士”や“魔法修道士”へ、成長した者が出てきたからだ。攻撃魔法は少し苦手で、サポートのデバフ、バフ魔法に自信があった魔法士からも、“幻術士”なんてのにクラスチェンジしていた。
ハイフォン王国としては、パプリカという戦士の御蔭で国の戦力が格段に飛躍した恩恵にあずかったことになる。そうなると、まあ、誰に師事したかを追求し、荷物を纏めていた彼女を王宮に招いて厚遇することになる。
いや、事実『もう、御暇します...放っておいてください後生ですから』と請願しても聞き分けてもらえなくなり、嫌がる彼女を最後は白い熊が説得して現在に至る。
その白い熊も、子供たちに人気者である。
普段は、かなりムスッとしている――人語を理解して、会話ができる珍しい動物であるが、子供たちからは“パンダ”という仇名で呼ばれている。
「パンダって名もだいぶ慣れてきたか?」
大型動物の騎獣兵舎には、寝床には藁が敷かれている。
トイレは部屋の隅で囲ってあるだけのスペースにしろと用意されていた。
この厩舎だけは何か月も同じ館の中にあるが、慣れないものだ。
「慣れるわけがない」
白い熊は、手鏡を器用にかざしながら自身の体毛を丁寧に、ブラッシングしている――マイブラシでだ。
「そういうものかね?」
「いや、そういうものだが...お前さんは、もとよりパンダだから特に気にしないのだろうよ」
向かいの個室から顔を覗かせているのは、白い体毛に目の周りを黒い丸斑模様を浮かび上がらせている熊がある。
掴んだ竹をバリバリ、ゴリゴリと音を立てながら食っていた。
白い熊は眉根を寄せて、不思議そうに竹を見ている。
「喰うか?」
当然、見つめていれば『美味そうだな、喰ってもいいか』と問われかねない。
思われても聞かれるようなら、パンダにも同類だと思われている可能性――は、無いだろう。
「喰わねえよ! 俺の方は肉か魚か、肉だ!」
「ふんっ、肉食獣め」
「わりぃかよ」
馬たちが個室から顔を出して――『また、やってるよ』『よっぽど暇なのかな?』――なんてやり取りをしていると囁く。
「聞こえてるぞ...」
この野郎と、小さく呟く。
パプリカを説得した後、動物である白い熊は思う。
待遇が良くなるのは人であるパプリカだけであることをだ。
《俺の待遇改善は、どうなったよ?!》
◆
王都の沖は、島々の影であまりよく見えない。
灯台とは別に、海側にひと際、盛土をしてその上に塔を建てた。
尖塔という尖った屋根を持つタイプではなく、屋根の無い単に遠くを見渡せる物見の塔だ。
海に出ると、やはり島影により王都の方角も分かり難いので、難儀しているところへ遠見の塔が立った事で、ある角度からはその塔の上部に設置された巨大レンズによって、方角を知ることが出来るようになった。
これは王国側にとっては痛恨のミスであった。
“物見の塔”より観測結果が王宮の中庭、野戦指揮所にハトが送られた。
「軍師殿の言われる通り、敵の船団が沖合におるようだ」
兄王は、甲冑を着直している。
それまで暫くの間は、胸鎧や肩鎧などの重いパーツから身体を自由にさせていたからだ。
「距離は?」
「バリスタの射程を知っているようだな。こちらから射撃できないあたりに錨泊しているようだ」
知っているというより、小型船が前もって威嚇射撃を受ける位置に入り込み、砲撃を喰らって大まかな数字を割り出した努力がある。威嚇射撃でも、島の影から400メートル位の範囲に、鉄の銛のような矢が降り注げば、小型船の数隻を沈めることは容易いという訳だ。
知る為の犠牲で船員336名が海に呑み込まれた。
「火砲ではないでしょうが、このまま停泊させるのも厄介なことかも知れません」
「だが、こちらも海上に兵を出せば、あちらの目に捕まるだろう」
“炎の柱”から着た魔法使いは『それでも』と声を荒げた。
魔法使い特有の胸騒ぎであろう。
直感力が高いから、微かに流れるマナを扱えるわけだ。
マナが満ちている所ばかりでないのが、この世界の特徴だ。
「水軍、水軍の将帥はあるか?」
「御傍に」
控えていた末席から、モヤシみたいなのが直立する。
兄王の領土は、内陸の北の方だからもとより将すらいない。
水軍は弟の治世で設けられた新しい組織の軍団だ。
その弟の選んだ将帥と言うのが、王が従える幕僚の席の端にあった“モヤシ”みたいな男ということになる。色白で、如何にも転んだら骨を折りそうな雰囲気があった。
王の顔にも、その色が映ったのだろう。
将帥は明らかに不機嫌な表情となって更に、王の前に立つ。
「私に含むことがあるのは理解できますが、その評価を部下にも向けないでいただきたい」
芯の確かな声を持つ。
見た目とは裏腹に気骨のある男の太い声だ。
もう少し、見た目に似た金切り声かと勘繰っていた己を恥じている。
「では、今一度問う。水軍は健在か?!」
「御意」
「如何ほどの戦力であるか?」
「小40、中37、大18に御座います」
「沖合の船団を殲滅を貴公に任せる...良いか?」
「御意!!」
青白い瞳に炎が宿るのを、王は見た。