-486話 イズーガルドの反撃 ㉛-
魔王に育てられ、天空を支配した有翼の女王の一人娘――。
母は、神であるゆえに天から、慈愛をもって地上のすべてを愛した。
怖れを知らない人間は、彼女の母、天空の女王を否定した。
“神々と共に歩む時代はもう終わった”
人は、人の足で大地に立って歩くことを決めた――親離れ、子離れの儀式だ。
魔王から、そうして教え込まれた堕天使は魔神となって、地上のすべてを憤怒した。
彼女はラージュ。
二代前の魔王が率いる、双璧のひとり。
◆
この世界のラージュは、頑固でひどい癇癪もちだった。
生真面目というよりも、そういう風に見えるといった感じだろうか。
彼女には寛容という言葉がまず、ない。
奪えるものであれば、命までも奪うという気質だ。
魔王軍の中では、第一席のアロガンスと同位に並ぶ将軍だといわれていた。
いわゆる双璧だ。
魔物の中で人間種に近いとする、亜人や獣人族などにはいいイメージを持っていなかった。
使い捨てるコマ以下に思っていたから、人間へ向ける感情というのも“人間は羽虫でさえ、贅沢が過ぎる”と、言い切ってしまうほどに毛嫌いしていた。おそらく目端に見えただけで消滅させえるに違いない。
そういう彼女と、異世界から来たカーマイケルを旦那さまと呼ぶ、目の前の女性とはあきらかに雰囲気はおろか、趣、佇まいさえ別人に思える。
かつての彼女が選択しなかったルートを辿ってきたとはいえ、おそらくは別人なのだろう。
「うーん、確かに愛情を注いで育てられましたが、人間への憎悪が消えたかと問われると...少し違った結論に至ったといいましょうか...」
歯切れが悪いわけではなく、彼女の中で解決には至ってない。
国境なき傭兵団というクランの仲間が、特別なだけであって他の人間も含めて愛すべき存在ではなかった。
それが違いなのだと、自信をもって言えないだけだ。
「うむ...説得は難しいですかね?」
人狼は独り言をこぼしただけだ。
「そうでもないですよ」
が、ラージュは二杯目の紅茶をティーカップに注いでいた。
彼女の本音を匂わせた。
「と、言われますと?」
人狼は、前かがみな姿勢で身を乗り出してくる。
彼女はベッドの角に座り、眼下の敷布にある人狼と見つめ合っている。
もっとも上下関係がある種の記号化した形で表現されている構図だろうか。
別人だとしても、魔人であり堕天使であるラージュの方が人狼より力量も、実力も上である。
「一つ目ですけどね」
「はい」
「私たちの仲間の正確な位置と、状況が分かると助かります」
人狼の喉が鳴る。
恐らくは分散して隔離されているような状況だと理解できる。
固まれば、ダンジョン攻略などを生業とする、冒険者よりも厄介な存在であることは、クラン名から察知できる。変に徒党を組まれないようにするならば、指揮官に成りうるタイプとは極力引き離して置いてあるだろうと予測もできた。
「おそらく造作もないでしょう」
「二つ目です」
今度はラージュ側から身を乗り出すように、人狼の顔色をのぞき込んでいる。
これは少し込み入った話だ。
「救出できる算段を立ててくれますか?」
「救出で...で、すか?」
これは尋常な話ではない。
まず、情報収集ならばおよそ、甲蛾衆の警戒に掛かることなく、済ませてしまうこともできる。
いや、あれは脅威ではない。
問題は、帝国の反応だ。
彼らの監視下にある人間を救出するとなると――。
「そう、いえ同時多発的...一斉に救出させて欲しいのだけど?」
いえ、忘れて。それは難しいお願いだったわね――ラージュが微笑する。
人狼の使者が、難しい顔を作っていたわけではない。
お願いをした本人が困難だと、無理な願いをいや、我がままだったと思ったからだ。
「すみません、すぐに返答できない不甲斐なさを...お笑いください。しかし、考えさせてもらいます...」
返答を、先延ばしにする理由はいくつかある。
もっともたる理由は、前提1の状況をみて――そのあとに考える必要があるからだ。
そして警戒レベルは、恐らく高い。
《さて、情報収集も可能かどうかだな...》
◆
天幕のような店の奥へ通されると、本来の店主が麦酒を片手に寛いでいた。
アビゲイルは、店主にスカーフを返すと更に奥へいざなう。
「わりぃな、もうちょい付き合え坊主」
「坊主じゃないと...何度言えば」
ベックの目は、店の中をぐるりと見ている。
確かに雑貨屋だったはずだが――『まあ、あれだ...魔法使いの連中が手を貸してくれててなあ、ちゃんと宿屋にポータルを繋げてくれるから...安心しろ』――前を歩くアビゲイルから声が聞こえた。
「...そうか」
「時に坊主」
ベックの眉間にしわが寄る。
もっとも、アビゲイルの言動から、ベックを揶揄っていることは理解できた。
そのやり取りが露骨なのだが。
「...悪いな、まっすぐ繋げることができないから、少し遠回りをしている」
食事中の市民宅を道に使い、家人を驚かせながら別の扉を開く。
こういうやり取りをこえて先、ベックの目の前にドラゴンが現れた。
「終点だ」
ぐったりしている魔法使いがドラゴンの足元に転がっている。
いや、肩で息を繋ぐ者も少なくはない。
「アビゲイルさん...休んでいいですか?」
城に詰めている魔法使いたちのひとりは、膝から崩れ落ちてい居る。
わりぃな、こいつを帰す時もひとつお願いするぜ――なんて、声を掛けていたが、それに応えられる者は残っていそうにもなかった。
「じゃあ、ベック君...ようこそ、メゼディエ城塞へ」
アビゲイルが腕を広げて迎えているその地こそ、新生イズーガルド王国の最深部である。
城の中庭だろう、見上げると狭い空が広がっている。
高く聳える城壁や館はどこまでも大きく高い。
威圧感というのだろうか、その中庭のドラゴンも。