-237話 人妻とアズラエル ⑥-
聖域というのは、昔、大聖堂があった地域の事だ。
大聖堂が地下にあった理由として、地脈が関係している。神代の時代からこの一帯は強力な魔力の湧きだす泉があった。地上まで染み出すのは、ごく僅かなものであったので、セーライム正教とラインベルクは、地下に荘厳な大聖堂を造ったという。
聖域とは、魔力場にあった大聖堂を指す言葉に変わっていった。
イリアが頭からスライディングすると、豪快にごろごろと転がって、周囲とは隔絶された空間に入り込んでいる。ウズベキもやや遅れて飛び込んでいる。
すでに、ゴブリンの姿は見えない。
いや、『逃げろ!』と叫んだその時から、ゴブリンがガーゴイル・ロードのイリアを見て固まった為、追いかけていなかった。
彼らの金縛りが解けるまで、1時間を要した。
「な、なに? この異様なほどの重圧」
子供をひとり産んだイリアも、それなりに成人した女性であったが、聖域を通過したあたりで容姿がいっきに10年ちかく若返っている。子爵の弟と結婚したのは20歳になる前の事で、まだその準備ができていなかった。
彼女らの一族は、一生のうちに数匹の幼生体を産む。
常に、出産1回につき1体の幼生体が産み落とされた。
成長期間は、20歳の最終変態まで人間と同じ時間を共有するが、それ以降の衰えは人の世界から隔絶される。魔物特有の時間生き、人の時間を超越したような、長い年月をただひたすらに生き抜いていくのだ。ただし、肉体的な生存ではなく、霊体としての意味に近い話だ。
イリアの代までで、ラインベルク血統を引いたガーゴイル・ロードの世代は、目撃されている人々では10数世代だが、実は見た目がちょっと変わっただけの同一人物で、半分よりちょっと多いくらいだ。
ただし、こんな事例もある。
イリアの母は、道で遊んでいた子供たちを助ける為、馬車に飛び込んで轢かれて死んだ。
不老ってだけで、不死ではない。
まあ、彼女の母もおっちょこちょいなとこがあって、子供たちが遊んでいたのは正直、車道ではなかったというオチがある。
馬車の操作を誤ることが無ければ、死ぬようなことが無い。
彼女は生来のおっちょこちょいが、発動して飛び込んだ訳だ。
そして、あっけなく死んだ。
イリア15歳の誕生日だった――。
「この辺りはね、魔力の純度が桁違いでね!」
ウズベキの容姿は変化が無い。
当然だ、ただの人である。
彼の夫人が、神の血を引く血統所有者だった。
ウズミナとウズナラにも、幾分か薄いものの神の血統と、ラインベルクの血が通っていることになる。
「昔は、この地域の中心にマルティア大聖堂ってのが建立してあってね! そのレプリカが聖都の大聖堂なんだよ。この街道は“微笑みと豊穣の巡礼街道”って言われてね、4里ごとに宿場町があったんだ」
ウズベキの知識が魔力によって活性化されている。
大聖堂の面影を見ることが出来るくらいの魔力だ。
イリアが周囲を見渡しながら――
「ねえ、叔父様」
「何かな~」
イリアの方へ視線を向けたウズベキは、彼女が10代にまで若返っているのに驚嘆している。
幼い少女姿は、懐かしさを感じる。
侯爵の庭園で、花に囲まれていた女の子を思い出し涙する。
「叔父様?」
「いや、あの時が一番... みんな楽しい時間だったなあって」
ウズベキの妻、ウズミナとウズナラの母が居た頃の話だ。
イリアの両脇には、アランと弟のロナンが寄り添っていた。
「いろいろ変わってしまいました」
〝そんなに変わったのなら、突っ立てないで茶を飲みながら世間話を頼むよ〟
「え、ええ?!」
振り返ると、イリアの母に似た、女性がクマの着ぐるみを着て立っていた。
丸顔で耳が横に突き出しているような雰囲気。
そう、まるでエルフのような。
「散歩と庭の手入れをしていたら、珍しく人の囀りを聞いたから見に来てみたら――」
「ちょ、ちょっと待って! お母さん?」
「誰が?」
「えっと?」
そっと指を指している。
指されている本人が豪快に笑い始める。
他人の空似くらいに似ていて、仕草にギャップがある。ガサツというか、粗野、粗暴といった男勝りな雰囲気だ。おっちょこちょいって雰囲気よりも、喧嘩っ早いという印象か。
「お前、何か変な想像していないか?」
「いえ」
「まあ、この辺りは寒いんだ。しこしこ自家発電するなら止めんが、あたしの庵がすぐ其処だから...泊めてやってもいいよ!」
八重歯というより、それは牙だ。
イリアと同じ顔のちょっと大人っぽいが、やや粗暴な女性は、ふたりを手招きして庵に誘った。
ただ、その庵というのが聖域の境から丁度、6里ほど歩いたところにあった。
◆
「まあ、案内って言ってもな、俺のエスコートはそうさなー。敵との遭遇率を下げる効果があると思ってくれ」
ジャック・テルマーが呟く。
悪臭が風上にあると、あれが動くたびに催涙ガスか、マスタードガスじゃないかという身体に悪い臭気に当てられる。中身が魔族だろうと、匂いや味覚があれば、この悪臭は殺人的になりえる。
噎せ返るな、呼吸は浅く吸って回数を減らせ、涙を堪えろ、瞬きするないや、目を瞑れ――なんて自己暗示を繰り返す。
「死ぬぅー!!」
101人が一斉に下馬、転がりながら悶え苦しんでいる。
男は戦わなくても、エサ子が誇る兵団の精兵をしとめることが出来る技を持つ?
彼が風上で、小躍りをするだけで良いのだ。
「お、おい...どうした?」
最早、体臭にもなっているであろう悪臭にマヒした男にとって、コレは普通だった。
心配になって、アズラエルの下へ近づこうとした刹那――彼は、腰のホルスターから短銃を抜き放って、銃口を男に向けている。
「近寄るな、否、来ないでくれ!! よ、寄るな...目が、目が...」
男の目は丸く点になっている。
徐に脇の下や、腕の匂いを嗅いでいる。
「ああ、ここに来ることを優先して風呂に入り忘れたな...済まんな、諸君!」
「風呂じゃねえ!!」
「は、え?」
「て、てめえ何日入って...っあああ」
ひどく咳き込み始めた。
騎士が彼を介抱し、銃口を向けていたアズラエルも意識が飛びそうになっている。
「えっと、あー...ん? お!7日かな? たぶん」
「阿保か!!」
「いや、その酸っぱいのは...ぎゃ、ぎゃー」
また、犠牲者が増えた。
回復水剤の数が足りなくなりそうだ。
「マンティコアの毛皮に、そのおしっこをふっている特性だぞ!」
101人の意識が飛んだのは直後だった。
回復までに半日を費やし、その場で一行は野営した。
ジャックは、近場の水辺で悪臭を抑えることに成功し、衣類の殆どをアイテムバックの中に封印させて案内人を続けることになった。
「この服は着なれないから、ちょっとスース―する」
豪快に毛むくじゃらな巨漢のジャックが選んだ服は、鳥打帽、皮の鎧直着こみ、サスペンダー付きカーゴパンツにブーツ姿。ウイリアム・テル然から、セクシー山師カレンダーの8月っぽい雰囲気に見える。筋肉を見せつけ、単にポージングするだけのカレンダーなのだが。
「匂いはマシになったが...お前の頭は大丈夫か?」
死の淵から生還した、アズラエルが問う。
アズラエルは、冥界の入り口際で、見覚えのある同族と大暴れをし、たたき返されたという記憶を持っていた。
「おうよ!」
ジャックの空回りした返答が夜の闇に消えていった。




