-233話 人妻とアズラエル ②-
聖都には、多くの秘密通路があった。
深い層にあるのは、神代からの旧過ぎる坑道の跡で穴が開いていること自体が不思議なほど、危険な通路である。いつ、崩れ落ちてもひとつの可笑しなことがない遺構である。およそ、人がどうやって穴を掘ったのか、いやそもそも、これらの坑道に繋がる縦穴ををどうやって掘ったのかも不明なものだ。
茶褐色のセミロングな髪が僅かな風になびいている。
丸顔で横にぴんと張りだした耳長の彼女は、澄んだ魔力が混じる風に心地よさを感じていた。
「ひんやりしてて、清らかな水の匂いを感じる」
「やっぱり魔族だね...魔力を感じるか」
イリアの前を歩く者は、手に灯火を掲げてさくさくと進む。
ふたりは、地表から十数分賭けて地中を目指して降りてきた。
右手には奇麗に切り出した岩肌があり、階段も、同じ材質の岩を一段一段削って作ったようだ。
左手は暗い闇を感じる。
おそらく何も無いのだと思う。
「ま、度胸だけは買うけど、目を瞑って落ちたら助けてあげないからね」
イリアが心地よく目を閉じていたのを、見ているかのように忠告してきた。
ひたひたと、足音らしからぬ裁きで歩いていた者は、不意に立ち止まる。
彼女はその人物の背中にぶつかった。
「っう...は、はな...打った...」
顔の真ん中を抑えながら涙目になっている。
灯火を目線まで掲げ上げると、周囲に気配を巡らせていた。
「まだ、着てないのかね?」
「お前が早いだけだ...」
右の通路から、同じように提灯を下げた影がぬっと現れた。
「ここは、今じゃ覚えている者が少ない連絡路さ。深さは、神代のも含めれば数百メートルにもなり上の井戸が閉められなければ、差し込む光の道はあそこだけになる。昔はね、地下に聖地の大聖堂があったんだよ――そうさね、5百年くらい前に地上に移築したもんで。みんなここへ来ることがなくなったんだがね」
灯火を掲げる人は、老人だった。
よく見ると、やや見覚えのある丸顔のおばあさんだ――えっと、丸顔でふっくらとした頬に猫のひげみたいな痣がある耳長いエルフのような。誰だったかなと、イリアが細い眼でじっと見つめている。
「うちの一族は、どんくさい奴ばかりかね?」
「え?! お祖母ちゃん!」
「そうだよ、いつまで待たせるんだい」
大変立腹な雰囲気だが、孫のイリアを逞しく抱き寄せてハグをしている。
ただ、お祖母ちゃんとおよそ生き別れたのは、26年くらい前だ。両親と別れたのはつい、10年も前の話だ。一応、孫の顔は見ていった筈だが、エセクター家の人々は忘れっぽい性格だ。
「あ、えっとお爺ちゃんは?」
「あの人なら、骨じゃないかな...」
死んだんだと、ふたりがしんみりしている。
向かいの提灯を下げているのを指さすと。
「あれはワシの弟子だよ」
「弟子?」
「長老会はな、平たく言うと一族の守り手なんじゃよ」
腰が弱い人が胸を張っている。
「アラン兄には、アサシンがあるけど?」
「アサシンは、ラインベルク家に忠誠を誓った者たちで、労役を終えれば魂の解放と共に土に還る者たちじゃ。ワシらのように死ぬまで一族の生存について守護することはないし、そもそも彼らは半永久的にラインベルクに遣われはせん連中だ。神祖さまは彼らに約束して居る――千年を経て己の為の自由をつかみ取れ――と。だから、彼らはその約束の時を待っている者たちだ」
その話は、何かのおとぎ話で聞いたような気がした。
ラインベルク血統序列によって本家が途絶えた場合、エセクター家の男子がドメル子爵家を相続することになっている。その場合、長女であるイリアが産んだ子は、嫡男であろうと構わずドメル子爵を拝命することになる。その次の子がエセクター伯爵家を相続する。
やや、不思議な相続権だ。
だが、ラインベルクは第2帝国では帝位を輩出した家柄なのも事実。
家というより、血脈を残すことに重きを置いている話なのだ。
「そうか、寝る前に父様が話してくれたお伽噺の...」
「本当に...どこにそういう情報をしまっている頭なんだい?」
イリアの側頭部を杖の持ち手で小突いている。
優しかった婆様はどこにも居ないようだ。
「長老会は、ドメルの小倅と約束をしたんでね」
「うん...」
「お前を守ると言ってみたんだが」
「うん...」
「ウズナラが強かなのか、あれに知恵を付けさせている連中が上手なのか...」
「?」
「悪いね、時間稼ぎはしてやれるけど...ワシらにとっては神祖を守り、血統を守ることが急務なんだよ」
「はあ...」
イリアが気のない返事をしていると、婆様が弟子を手元まで呼び寄せた。
弟子の顔もよく知っている者だ。
ああ、この人も――ウズミナ兄さまの御父上その人である。長老会へ行ったのは、40代後半頃だ。伴侶だった妻を先に亡くした辛さを長老会で癒すつもりで出奔し、ある日を境に音信不通になった人だったが、あれから30数年は経過している筈なのに。
ウズミナの父は、40代後半のような艶のある顔をして立っている。
「あれ? おじ様??」
「やあ、イリアちゃん。大きくなったね? ん...子供を産んだって聞いてたけど、君、本当に産んだの?」
「はい」
「母親の艶じゃないんですが、師匠」
「いいんだよ、エセクターの女に出る稀な症状さ...じゃ、あんたに任すからきっちりマルティアに送ってあげなよ? 多分、あそこで連中と会える筈だからさ」
「はい」
彼女の手を引く相手が変わる。
イリアは、祖母の背中に『あの連中とは、何?』と、問いかけてみたものの返答はなかった。




