-181話 魔王軍 72師団の戦い方 ③-
魔王軍は、時間と共に晴れる濃霧を利用して、荷馬車を警護する兵をゲリストフレス湖へ逃した。
同地より北側にある水源地で、魔王軍の勢力圏下にある。
この濃霧によって、そうした撤退する兵士らを悟られる事無く、分けられる最後のチャンスかもしれない。やはり、将帥らの我儘で苦楽を共にしてきた、兵士らを死地に送るのが忍びなかった。逃がせることが出来るのなら、それをしないのは指揮官として怠慢だと告げた。
撤退を指揮する将帥は、食事の席で皆にワインを注いだ者だ。
仲間の認識票を革袋に詰めて腰に下げ、無念を押し殺して任に就いた。
攻撃主体の兵力は1万人。
その破壊力は、オーク族が中心となっている。
とうとう押し込まれた黄昏の隊は、後方でふんぞり返っていた戦略家たちの陣にまで届いた。
自陣防衛の為の兵力も露見する――その数1万。
◆
「こんなところに...いや、出し惜しみされるとは、なかなか気分のいいモノではないな」
代行が馬上から、身を屈めてぼやく。
バイコーン装甲騎兵は、兵団の中央へ布陣し直している。
騎兵の攪乱は、コボルト槍騎兵と、骸骨剣騎兵が率先して動いている形で成立し、死鬼竜騎兵は、斥候に転じている。竜騎兵が一番、数が少なく足の速い馬が当てが割れていた。
代将の時代より、斥候として重用されていたから、代行も倣って彼らには、本来の“目”を命じた訳だ。
「陣形の再編。終わりました」
「ご苦労...弓兵、矢を放て!」
代行の指示を得て、長弓隊千人の横陣2枚から、一斉に矢が放たれた。
一瞬、空を黒く染めた矢が黄昏の頭上を跨いで、敵陣地に注がれたのを誰もが目撃した。
だ、だ、だ、だ――打ち叩く雨音のように降って来た矢を前に、豪華な飲食物で喉や腹を満たしていた戦略家らの天幕は、見事にぺしゃんこになった。詰める心意交信の為の兵らも、天幕の中で同じ目に遭ってしまった。
魔王軍の弓兵攻撃は、派手な長弓による遠投と、地味な中距離射撃の二部構成だった。
撃ち終えた長弓がその場で屈むと、短弓隊千人の横陣4枚が左右に展開する。
見据える目の前の敵兵は、“黄昏”の歩兵部隊だ。
〝盾を構えよ!!〟
号令は、長弓の矢を目で追ってしまった最前列ではなく、降ってくると思った後方の指揮官らから発せられた。鋼鉄の重騎士は、足が縺れて退避中にすっころんで、多くの兵に踏まれるという、不名誉な脱出となった。
現場指揮権は、クラン長のいなくなった副長に移譲している。
短弓からの斉射の方が実は、えげつない結果を出した。
派手さは無いが、放たれた矢の重さは弩のものだ。
手の中にバリスタがあると思うと、理解しやすい。
魔王軍の標準装備は、魔法具を生産する工房で造られている。
近年の進展と、兵法家の献策によって、工場化が進んで大量生産された魔法の武具が多く作られている。
一般の武器でこれらを壊す事は容易ではない。
対する人間側の武器は鍛冶屋次第の手作業だ。機械化とか工場化などの領域には、まだほど遠い状態にあった。弩の矢でも重さのある盾ならば、弾くか刺さるか程度で問題ない。粗悪な盾の場合は、バターやチーズをバターナイフで削ぎ落すように貫かれてしまった。
腕をもぎ、足を粉砕して、地に突き刺さる。
脇腹を抉り、胸に孔を開け、顎から下、首から上を吹き飛ばすなどの惨状が目の前で起こる。
副長を護る兵の身体も、矢によって肉塊にされた。
目の前の色は、真っ赤だ。
空も地も空気さえ真っ赤に見えた。
最前列は崩れた――『重歩兵隊ーっ! 前へっ!!』代行の指示を受けた、各隊の将帥が各々で叫ぶ。黒い波が押し寄せる。戦意を失った最前列の兵にひと太刀を浴びせることなく、突き進む波。逃げ惑い兵は、盾によって押し退けられ、突き飛ばされて地面を這わされると、オークが彼らを踏んで進むのだ。
言葉のいらない殺戮の現場。
“黄昏”の副長は、『盾を構えよ!』しか言えない。
いや、後ずさりながら、戦略家たちの為に防衛させていた1万人に一縷の望みを賭けた。
後方の陣地に入りさえすれば、数的不利を挽回できると。
◆
隠者が率いる300と相乗り100の傭兵団は、濃霧が晴れる境目に到達した。
距離にして約2kmほど進んだ頃合だ。
布陣していた1km弱から此処まで、死屍累々の光景が続いている。
「ここまで、酷いとは」
隠者は顔を背けながら、空を仰いでいる。
血生臭い一帯から抜けて、新鮮な空気と水が飲みたいと考えてしまった。
「それが普通の神経をもった者の形だ」
人狼の戦士が、彼女の背中越しに告げる。
ずっと、腹のあたりに腕を回して密着しているが、自然と平常心でいられた。
戦士もオスなのだが。
「これより先となると...」
「何が在るんだ?」
戦士は、国境の近くで拾われた身だ。
近くで大きな戦がある、食べ物と温かいスープが飲めるぞ――という謳い文句に、マルが反応したから参加した。まさかイチ抜けで、彼女が退場してしまうとは思ってもみなかった事だ。
だから、陣形だとか各隊の布陣位置なども知らない部外者だ。
ただ、前の世界では戦い慣れた戦士だった為、戦場の移り気には敏感なだけだった。
「我々の雇い主がいるのさ」
「雇い? あんたら傭兵だったのか?!」
「まあ、言い方はそれぞれだろうが、報酬を当てにしてるんだから...傭兵と言えば、傭兵だな」
隠者の肺が大きく動いて、身体小さく萎んだ感じがした。
「地面に踏み固められた足跡の数を見ろ。歩兵の中心は、豚野郎だ」
「多いな...ここまで脱落者が居ないとすると」
「奇襲を掛けても、焼け石に...」
「だが、」
「姫さまならば、いや、あの方はお優しいから」
隠者の背中で戦士が微笑む。
「お前の主人はよっぽどお人好しなのだな。だが、ボクもこのまま逃げるのは...嫌だな」




