-169話 決戦 ハルスケンプの戦い ①-
エイセル王国の湿地帯は有名だ。
その日は、朝焼けに空が明るくなる前から、しとしとと涙雨が降っていた。
雨足がひどくなったのは、時計の針が7時を少し回ったあたりからだ。
ばしゃ、ばしゃ...。
湿原に降り注がれた雨水が、あたりを池に変える頃。
魔王軍の一部が動き出す。
その殆どが傷病兵だ。
「この雨足が隠れ蓑になれば――」
ジャガーの頭を持つ人豹らは、ハルスケンプの城壁から傷病兵の隊列を見送っていた。
願わくば、無事に後方の部隊と合流できればいいと考えていた。
◆
ハルスケンプの周辺は、一面の麦畑が広がっていた。
収穫はとうに過ぎて、今は城砦の蔵の中にそれらがある。備蓄からして城壁内に住む市民2千世帯の2年分にあたる食料だ。
魔王軍第72師団の食事ではない。
72師団は、定員3万6千もの魔族を編成した七席の軍団において中心的な主力部隊だった。
本来なら、将軍の膝元にあるべき存在だった。しかし、これを指揮する師団長が少し変わり者で、最前線を回って鼓舞を忘れない武人だったのだ。
将軍“冒涜”を十傑にさせた将帥、アケロンが指揮していた。
彼の獲物は槍だ。
刃先は、蛇行する川の流れのような形状をし、水属性魔法を操り、穏やかな雰囲気を持っていた。
が、属性次第では、このエイセルの地は彼にとってもっとも、利になる地域とも言える。
「師団長閣下――」
物見に行かせていた兵が戻ってきた。
特に南部と東部には、送れるだけ、飛ばせるだけの“目”を放ち、情報の収集に努めた。
82師団を救出するために、8千の兵を失った。
ディフェンダー城は、正面火力に対する防御力に富む構造をしていた。
接収後、改修してロアーアイセル川を挟んだときの城郭防御力は、現有の城郭よりも優れた機能を発揮する筈だったが、これは川を壁とするか、否かで意味が大きく違うものへ変化した。敵の侵攻は南から来た。
スラブアメルローの奪還は、一度は壊走した兵が、脱出のために使用した古い坑道を逆手にとって、場内に雪崩れ込み、逆パターンで奪取した電撃作戦が用いられた。ディフェンダー城は、城の構造を逆手にとって行動したことによる。
しかし、これらの侵攻は容易でなかった筈なのだ。
ディフェンダーの構造的弱点を補うために、南部には支城が置かれてあった。
それぞれが目を光らせていた監視していたにも関わらず、本城が陥落させられたのは、多目標同時攻撃しかない。
その考えに至ったアケロンは、各方面に絶え間なく物見を飛ばしている。
携行している武器は、打ち直せば幾らか使えたが、矢弾の方はどうにもいかない。補給物資が届けば、傷病兵を伴って撤退という選択肢もあった。が、5日も経って未だ到着しないのであれば、七席の怒りを買ったか、或いは盗賊かなにかのトラブルに巻き込まれたと考えていた。
「傷病兵の足で7日いや、せめて10日は稼いでおきたいものだ」
「師団長閣下...敵兵を発見しました」
戸口に人豹が立っている。
アケロンが彼を見るや、席を蹴って中央の机上へ誘導した。
「どこだ?! どこから来る!!」
周辺図を広げて指を差せと促す。
「アンヘイムより人影が」
「またか?! 南部のといえば、デュイエスブルク大公国――あの、陸軍国家め...」
食えない老人という認識だった。
王族が夢魔という魔族が、人の皮を被って統治している不思議な国だった。
「城壁前に軍団が布陣!!」
戸口に伝令が立つと、アケロン代将へ告げる。
次に飛び込んできた情報将校は――『82師団っ、壊滅!!』――という報せだった。
「くっ、馬鹿な?!」
城壁へ向かって走る。
「どけ、どこだ??」
城壁まで上がってきた代将へ部下たちが道を作った。
警備隊長が『あちらです』と腕を指し伸ばす。
槍先に掲げ上げれられる、頭部だけのシルエット。
「彼らは戦えなかった! 戦時協定、ルールさえも無視するのかっ!!!」
明らかに挑発だったが、城壁の上で騒ぐのが将帥だとわかると、敵方はあからさまに狙撃してきた。
「代将閣下!」
兵たちが盾を掲げて、彼を守る。
「ええい、要らん! 無用だ、当てる気が有れば当てて――」
乾いた銃砲の音にまぎれて、アケロンの身体が左右にぐらついて崩れる。
ひざを突き、鈍い痛みの元を静かに手を当てた。
「脇、はら...?」
真っ黒な体液が胸鎧の脇から滲みあふれている。
手のひらにもべったりと載ってきた。
「こ、...」
小盾の壁脇にコボルト兵がある。
いやそれよりも後ろに見慣れない男だ。
「に、にんげ...ん?」
代将の言葉に促されて兵士が探すも、それが見つからない。
「代将ーぉ!!」
◆
指揮官欠落、72師団は篭城ではなく撃って前に出ることにした。
時間稼ぎでもあった82師団の壊滅によって作戦を放棄、代将アケロンを後方へ退かせる必要に駆られたからである。
決戦地はハルスケンプの地だ。
代将を載せた馬車は、百騎あまりの護衛を伴って隊を離れた。
彼が次に目を覚ましたのは、その日の夕刻あたりだった。
「閣下、今しばらく安静に」
「撤退したか?」
「いえ、ハルスケンプにて陣を張り...」
「くっ、私が冷静さを欠いたせいだな」
傷口をぐっと押さえる。




