-1.5.1話 きっかけ-
風呂桶と手ぬぐいを持ち込もうとして、共同大浴場の入り口で押し問答をしている賢者の姿があった。
「そんな私物、ここに持ち込まないでください」
宿屋の主人は、賢者の両肩を両腕で必死に押し退けている。
その抵抗に対して賢者は、桶を抱えて右に、左下にと潜れないか、抜け出せないかと身動ぎしながら逃走しようと必死にもがいていた。風呂桶は檜で造られた一品で、手ぬぐいは郷里から持ってきたものだ。確かに私物だが、露天風呂というのならば、これくらい雰囲気をだしてもいいじゃないかと気合が入った変なこだわりがある。
ま、賢者だけの常識を他人に押し付けようという厄介な話だ。
「いいじゃん、いいじゃん!!」
と、口を尖らせている。
「だから、桶は中にあるものを使ってください! 脱衣所の手前の売店で海藻のスポンジも売ってますから」
主人のこの問答は、もうかれこれ20分は続いている。
その間、目が釘付けになりそうなすごいボリュームな胸を持った女の人がすっと過ったり、胸筋隆々のおっさんが褌一枚で尻を掻きながら歩いてたりしている。
「もうー負けた、私の負けだから...」
と、主人の抵抗が緩んだ隙に懐の下の方からするっと抜け出して脱衣所に飛び込んでいる。
まあ、間違って男湯に飛び込んでぎゃーぎゃー騒ぎながら入り口に戻ってきた。
「観念してくださいよ」
主人が疲れた顔で諭している。
いや、ごんぶといキノコを見てきた賢者にとっては、喘息にも似た荒い息使いで顔が青くなっている。とても抵抗してまで己の意地を貫きとおすような気力も無くなっていた。
「ごめん、ボク...ちょっと吐き気が」
賢者がその場で固まった直後、だばっと得体のしれない粘液を口から吐き出した。
賢者は、そのまま気絶してしまっていた。
◆
「まあ、あれですか? 海賊らの根城にいや、思しき海域に船を送ったら戻らなくなったと?」
海軍士官を不思議そうに見るのは、船大工だ。
彼の工房には今、4隻のブリックが建造されている。国からの依頼だが、少々安く買われたような気がしないでもないと、知り合いの海軍士官に愚痴っていたところだ。
「そうだ、海域に送った内の2隻が行方不明だ。確かにあの海域の霧は、濃すぎて地元でも難儀している、分かってるとも。しかしだ、」
と、会話を遮って船大工が見慣れないターバンの男をみつけた。
材木をひとつ、ひとつ見分しながら歩いているのが気に成ったからだ。
「おい、あんた!」
「これは失礼した。南の地域では、どのような木材が手に入るのかと思い...」
男の詫びに対して、剣の柄を船大工が手に取っている。
「これは見事な木材だ。いや、この調度も見事だが、何といっても質がいい」
「いや、これは素直に嬉しい」
と、ターバンの男は頬んで見せた。
「この木材は?」
「ローズウッドですよ。我が主が好きな品質でしてね、配下の者にはすべて、この木を使った何かしらの道具をお与えになっております」
「ほー?! こんな良質なものは見たことがねぇや」
海軍士官も目を持っているわけではないが、船大工とも共輝きに驚いたといった返し方をしてみた。
「で、何用でさ?」
「ああ、船をひとつ作って貰えないだろうか?」
船といっても造船から始めれば、その額たるや途方もなく金が掛かる。
そもそも、大口取引でも無ければ値切り何てものは発生もしない。
「大丈夫だ、金ならある。我が主がこの国で造れる最高の船を見てみたいと申しておられるのです」
「最高の?」
「最高のだ、そうだなもう少し具体的に注文を付けくわえるのならば――この国では一般的な帆種を用いて3本マスト、横組と縦組みどちらでもいいが、最高だと思える形で誂えて欲しい。自衛用に大砲も載せてみたいな」
船大工が少々険しい表情になった。
「あんた、相当に詳しいな」
「材質もこの国で最高のをお願いしたい。そうだな、20年は乗れるものがいい...」
「じゃ、その船はどこを走るんだ?」
「察しがいいな、外洋だ。勿論、この国の外で使う」
ターバンの男は前金と称して、金の棒が入った革袋を差し出した。
言い値といった手前、箔をつけて20本にしたが、受け取った船大工が驚きの余り突き返している。
「こんな代金、ありえねー!! 俺をバカにするのも大概にしろよ」
と、『あんたらどこの国の者だ、この国を転覆でもしようってのか!』と怒鳴っている始末。
海軍士官が船大工を宥めながら、
「てめぇもグルか?!」
なんて噛みつき始めている。
そんなひと悶着に、外で待っていたスライムを帽子代わりに被っている人物が入ってきた。
「未だなのか? 買い物は他にもあるのだぞ?」
ひたひたと歩き、派手なローブを纏った人外なる生物。
南洋王国は亜人種の数が異常に多い。
しかし、目の前のは亜人というより魔人だろうか。
「ここら辺の船大工は皆、断ったがより腕のいい者を指名したぞ、お前だ」
うねうねと動く触手はタコか、烏賊か。
皆が断ったのは、この魔人と関わり合いたくないため。或いは、国家反逆罪になりたくないからか。
「し、しかし旦那... この注文って、軍艦ですよ」
「軍艦だとも、国の力を計るのにこれ程のものはない」
「計るって?!」
なんだか恐ろしいことを聞いてしまったと、船大工は後悔した。
「まんま、軍艦を作れとは言ってない。軍艦を想定したモデルを作れと言った。これで理解できるか? まあ、要するにだ...漸く、ふふ、動いたか」
工房の外から蹄の音が響いた。
王国の警備兵らの到着のようだ。




