-138話 聖都奪還戦 ②-
グレイ枢機卿による、シルクシェル大返しが行われようとしている。
この情報は、ドメル子爵配下であるアサシン教団から届いた。見返りとして、倉庫に眠る小麦粉の融通を得る事だ。結局、通貨よりも食料が一番、貨幣以上に効果のある物資という事になる。小麦粉の袋は、マルティアの倉庫から荷車一台分取り出されると、物見で活動している平民然とした人々に下賜される。
彼らがアサシンである証拠はない。
ただ、その教団指導者が代々、子爵家に篤い忠誠を誓っているという事だけは事実のようだ。
「事実上、敵に塩を送ったことになる枢機卿にとっては、是が非でも自分の手で聖都を奪還しない事には、求心力という点で翳り、今後の彼の立場も危ういでしょうな」
子爵の眉間の皺は深い。
侯爵も頷きながら――
「教皇が存命であれば、糾弾は免れない。かといって見殺しにすれば、人道的にも彼を後任にと推挙する者もいないだろう。だが、我々が介入した場合はどう転ぶだろうか?」
それは、子爵も考えなかった訳ではない。
2万の軍勢の内、目下、ゆるゆるとマルティアに接近中の8千に損なうも、軍閥兵を無視するには聊か大きすぎる敵である。これに対処するとなると、1万は残しておきたいと現地の当主、マレト男爵の懇願である。
彼だけで動員できる兵は、5千余りだ。
街の規模からしても、他の同一規模のそれよりも1千は、多く動員できる。
だが、それが限界だ。
後は、街の防衛機能に託すほかない。
「これは、未確認だ――。街に火の手が回り、聖堂から煙が出たのかは定かではない。が、教皇と残留していた枢機卿らが殉教したとして、今後の教会運営に我々も参加するには矢張り...」
腕を組み反り返る侯爵を、目端で捉えている子爵がある。
天上を仰ぎ、何やらぶつぶつと呟いていた。
「目下は、この好機に誰を向かわせるか...ただ、それだけなんだ」
「で、あれば」
騎士爵が執務室のソファで組んでいた足を床に降ろす。
「貴殿の部隊は、未だ、再編中のようだが?」
「いや、俺ではない! あの剣士の妹という化け物を使うのが得策なんじゃないか?!」
剣士の妹=エサ子の事で間違いない。
化け物という評価は、認められたことなのだが、本人が聞いたら静かに怒ることだろう。
もっとも、彼女はこういう堅苦しいところは近寄らない性格だ。
今の頃合だと、剣士から貰った小遣いを握りしめて、街のパン屋を梯子しているに違いない。
「ほう、その根拠は?」
「確か、10数騎の騎士と、スライムナイトの100人隊という部隊を率いておったな?」
反り返っていた侯爵が身を乗り出している。
教練場にて技を磨いている全身甲冑の妙な騎士がいると、侯爵の耳にも入っている。
これが、スライムナイトだ。
フルズベルグやモーリアンなどは、1000人の軍団を用意するために奔走し、街の中や外から傭兵をかき集めて、召喚という儀式で戦友を呼び出していた。エサ子のわざと、目立つ行動の裏で行われた為に人の目に触れることなく、いきなり精強なる軍隊が出現するのである。
騎士爵がこれを知ったのもつい先ほどの事だ。
「いや、今は千人隊と呼んでいいだろう」
「は?! 千人...だと?」
子爵がよろける。
「あの娘の隠れファンだとしても、目つきはや体捌きからして猛者だ。昨日、今日に兵として招集された輩じゃあない。もっと昔から...」
「では、戦力として数えていいんだな?」
子爵は、頬から顎下を撫でる。
その視線は右下の侯爵と交わっていた。
「イリアの出番でいいだろう。アレの馬なら枢機卿の兵より早くメンセルの地を踏める」
◆
ちゃぷ....
水面に小さな気泡が浮いてきた。
港内の船体には絶え間なく打ち寄せる波音があるから、気泡のひとつが弾けた程度の音では、船上の見張りの気を引くほどの影響はなかった。2本マストの木造船は、全部で17隻が錨を降ろし、密集するような形で停泊している。
街への砲撃を終えて、波に揺られながらマストの張りが交互に揺れ、重なって離れるを繰り返していた。
その1隻に鍵爪を掛けて登る人影があった。
また、隣の1隻にも海中からわらわらと影が現れる。
ランタンを掲げて、警戒する黒い海は、夜の闇と同化して不気味だった。
「...早く、交代して陸に上がりたいもんだな」
と、警備の兵は船の縁から水面を灯す。
何もない――篝火のようにランタンの光が自分を水面に反射させていた。
「よし、あと半刻か」
甲板に据え置かれた砂時計をひっくり返しながら呟く。
ざりゅ... ごりりっ...ぎゅる。
ランタンを持つ兵の胸から、突き出す黒い突起物。
照らすと、赤黒い粘液がついた鋭利な刃先だ。
背中から前に回り込む影が、ランタンを救い上げる。
「な、なにや...」
「しっ、しししぃ...声を挙げるな、大人しく...眠れ、眠れ」
口を押えて、船尾の物陰にそっと捨てる躯。
「船内を捜索し、ひとりづつ確実に暗殺せよ」
エサ子は、小剣を片手にひたひたと船倉へと降りていく。
剣士は、スライムナイトを率いてさらに深く先行していた。
船の襲撃をエサ子と1000人が請け負う。兄である剣士は、海を静かに泳ぎながら、漁師たちの船着き場からそっと侵入したのである。
彼らが目指したのは、区画ごとにある教会だったが、これが豪族たちの手によって破壊されていると知ると、港に居を構えている商館と倉庫街の周辺に部隊を展開した。倉庫内の物資は既に略奪された後だったが、建物としての頑丈さや石造という点においては、希望に叶う物件である。
「剣士、そろそろ時間のようです」
スライムナイトの分隊長が告げる。
倉庫の二階に上がって、港側の窓から船影へ視線を向けていた。
奥からチカっ、チカっと光る。
続いて、窓ガラスを激しく叩き付ける音の衝撃が押し寄せて、爆発の光が闇を吹き飛ばしていった。
17隻の木造船が木っ端微塵に、燃え上がっていく様は圧巻だった。
「兄上...」
倉庫に辿り着いた、エサ子の声だ。
「無事だったか」
「うん、もう一度海に入ったから血糊も消えて快適なんだけど、兄上に借りた小剣、なんだけど...」
「どうした?」
「落としちゃった」
てへぺろってな感じで『ボク、一応、反省してるよ』と、告げているが、その気を疑いそうになる。
別段、何かの思い出というも特別な記憶の無い装備品ではあるが、こいつは他人から借りたら返すという所作が出来ない子なのかもしれないと思わされる。
「気にしなくていい」
と言った傍から、『で、代わりに船にあったシミターを拾ってきたから』エサ子が、剣士に曲刀を渡している。恐らく、これを失くした小剣の代わりにというのだろう。
此処まで来ると、単に手癖の悪い子である。
「港に敵兵を確認!」
心意交信による物見の報告。
剣士は、静かにエサ子の胸元を人差し指で差しながら、
「奇襲した後、正門を押さえるぞ!」
「応ッ!」




