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ブルータル

作者: 藤堂高直

 橘上等兵は軍用車でラッフルズ・ホテルの前に連れて来られた。帝都でも見たことのない壮大な建築の前に立つと橘上等兵は緊張した。掌が汗で濡れている。決して暑さの為ではない。今朝、彼は鬼辻と呼ばれる参謀から呼び出しを受けたのだ。


 鬼辻と聞いて良い連想をするものは敵味方共にいない。鬼辻は兵站を度外視した作戦を立て、国民党や共産党の工作員、潜伏する華僑義勇軍を一掃すると宣い、殆ど関係のない華僑を大量に粛清したかと思うと、自らが最前線に立ち蛮勇を発揮し、上司でも平気で噛みつく。一言で言えば、ものの加減を知らない男だ。また、鬼辻はその性格を反映するように、頭蓋骨に響くような大声で話す。橘上等兵はこれまでに何度か鬼辻の声を遠くから聞いていた。が、直接会うのは今回が初めてであった。


 南方の白い光がホテルのロビイを照らしている。橘上等兵は滑らかな大理石の階段を登り、三階の客室に案内された。重厚なチーク材の扉を開けると、部屋の奥に一人の小男が巨大な椅子に腰掛けながら書類をめくっていた。橘はその男と目が合った。丸眼鏡の先に奥行きのない瞳が伺えた。鬼辻だ。


「貴様は帝大の建築学科を出ているそうだな」

「はっ、大学では岸田研究室に在籍しておりました」

鬼辻は、橘上等兵の返事を無視するかの如く続けた。

「・・・卒業後は職に就かず、兵役検査で甲種となる。戦争が始まるとシンガポール攻略戦の後続部隊に配属されるも戦闘経験はなし・・・だな」

鬼辻の声色からは何の感情も読み取れない。ただ淡々と橘上等兵の経歴を読み上げた。橘上等兵は「職に就かず」と言われ、一瞬顔をしかめた。

「・・・はい。それで間違いありません」

「うむ。で、貴様、実施設計をしたことは?」

「大学在籍中に実家の増築をしたのみです・・・」

橘上等兵は嘘を付いた。彼は郷里の実家で犬小屋の設計をしたのみであった。

「大学での成績は甲とある・・・貴様、内地にあり昭南島にないものがある。分かるか?」

「検討もつきません」

「ないものは創れば良い。我々は既に昭南神社と忠霊塔の建設を始めた。国語の音盤も聴ける。台湾から上等な米は入るし、南洋の魚も調理すれば不味くない。気候は我が国の夏を想えば良い。が・・・何か足りない」

「それは何でしょうか・・・?」

「温泉だ!」

「温泉ですか!」

橘上等兵は鬼辻の声につられ、大声で返事をした。橘上等兵は思った。確かに昭南島に温泉はない。だが創れと言われても、源泉のないところに温泉は出来ない。

「昭南島にも温泉はある、正確に言えば源泉の状態でセンバワン地区にある。そこでは昔から治療用に源泉をボトルに詰めて売っていた。成分を分析すると我が同盟国ドイツの保養地バート・キッシンゲンと類似していることも判明した。だが、今の状態では内地からの来賓を招くのに相応しい場所ではない。それをだ、貴様の手で東洋一の温泉施設にしろ!期限は四カ月。意匠は・・・そうだな我が帝国の威光を表すに相応しい帝冠様式にでもしろ」

「はっ!」

橘上等兵は鬼辻に何を言われるのかと思っていたが、それが設計の話と知り安心し一瞬弛緩した。それを確認してから鬼辻は言った。

「因みに・・・少しでも妙なものを作れば、貴様を瞬時に名誉の戦死として葬る事も出来るのだぞ」

「えっ・・・」

「貴様!俺の眼が節穴だと思っているのか?貴様が大学を出てからアカの集会に参加していたことなど既に調べ上げてある。内地では上手く誤魔化せたかも知れないが、外地ではそうは行かないぞ。粛清の際に、貴様が連絡を取っていたシナ人が白状した。お陰で内地の組織を芋蔓式に潰す事が出来たわ。貴様のアカい友達は今頃、仲良く塀の中だ」

橘上等兵は足の関節が歪み地面に沈むような錯覚を覚えた。鬼辻は最初から全てを知っていたのだ。

「貴様を処分するのは簡単だ・・・が、貴様の学歴を見るに葬るのは惜しい。そこで機会をやる。国の為に良い仕事をしろ!貴様はこれから温泉施設の設計主任になれ!センバワン地区に民家を用意させた。そこで作業をしろ。苦力と英国人捕虜は自由に使って良い。但し、変な真似はするなよ。貴様は常に監視されている!」



 橘上等兵は、茫然としながら客室を出て考えた。そう言えば数日前から連絡役の少年が来なくなった。別の連絡役が来ると思い左程怪しまなかったが・・・憲兵にでも捕まったのだろうか?橘上等兵は少年を憐れんだ。小遣い稼ぎの為に連絡役を務めていたのだろう。資本論も読んだことのない少年が巻き込まれたことに、橘上等兵の胸は痛み、主義の為に人が犠牲になる虚しさを知った。


 俺は何故、主義者となったのだろう・・・橘は大学を出て、就職に失敗してからは仕送りを女と酒に蕩尽する生活を送っていた。そんな橘を見た同窓の高橋は自身が主催する集会に橘を誘った。その集会で高橋は「職に就けないのは社会の仕組みが間違っているからだ!橘のような人間こそが上に立つ社会でなければならない」と語った。そのアジテーションは疲れていた橘の心に素直に入って来た。

 集会には橘と似た境遇のものが多くいた。彼らは地方出身者や朝鮮人であり、皆それぞれに社会からの疎外感を感じていた。橘はそこに妙な心地よさを感じた。以来、橘は集会に積極的に参加するようになり、高橋の薦める書物を片端から読み漁った。仕送りが途絶えつつあった橘に高橋は「なあ橘、組織の幹部にならないか?」と誘った。橘は快諾した。以降、橘は高橋と共に理想の為に働いた。出所は不明だが生活が出来る程度の銭も貰えた。


 シナ事変が泥沼化すると、高橋は橘を呼んだ。高橋の脇には「米英帝国主義を撃滅せよ」と書かれた右派のビラが見えた。

「日本を米英との戦に巻き込まなくては、我々の理想は潰える。俺は偽装転向し海外の同志と連携して世論を動かす。成功すれば資本主義社会は共倒れになる。その後に我々の理想社会が誕生する」

そう言うと、橘の肩に手を乗せた。

「橘。理想実現の為には、もう一つ。これから始まる新たな戦いの状況を誰かが前線に行き報告しなくてはならない。それを遂行するには誰からも睨まれていないお前が最適だ。この任務が終れば我々は次の社会で指導的立場になれる」

橘は高橋の指令を受け、その日以来、徹底的に肉体を鍛えた。その甲斐もあり、兵役検査では見事甲種に選ばれた。高橋の言う通りに米英との関係が悪化すると、橘はシンガポール攻略戦の後続部隊に配属された。


 橘は高橋との関わりの中で自分の役割を見つけ、生き甲斐を感じた。だが、その組織はもう存在しない。橘は遠い南方の島で取り残された気分になった。首でも吊ろうか・・・が、橘は押し留まった。それは組織と入れ替わりで与えられた、新たな役割が理由だった。畢竟、橘は己が役に立てる場所が欲しかっただけなのだと知った。



 橘上等兵の額からは汗が滝の様に流れている。首に巻いたタオルで拭いてもキリがない。脇や首元は真っ赤に爛れて痒そうだ。蚊がブンブブンブと鮮血を求めて飛んでいる。小屋の外からは苦力と英国人捕虜達がシャベルで地面を掘削する音が聞こえる。橘上等兵は図面台の前に座りながら製図用紙を長い事睨んでいた。そこへトントンと戸を叩く音がした。


「橘上等兵!赤煉瓦そろいました!」

「おお、カールか!報告有難う・・・そうだ、ちょっと良いかな?」

「何ですか?」

橘は捕虜のカールを製図台の近くまで呼んだ。白人特有の体臭が漂って来た。カールは蒼目に金髪のひょろりとした長身の男だが、重労働と粗食の為に肋骨が浮き出ている。彼は橘と同い年で、兵役に取られる前はロンドン大学で日本建築の研究をしていた。その為、日本語による簡単な会話が出来た。英語の苦手な橘にとってカールの存在は有難く、時折建築の相談をした。


「なあ、この図面を見てくれないか?」

「これは・・・帝冠様式ですね。アール・デコ様式の躯体に瓦が葺いてあります。でも・・・失礼ですが、つまらない」

「そうだ。俺はこんなものは作りたくない。帝冠様式にするとどうしてもこうなる。もう一つの図面を見て欲しい。やりたい意匠がある。これだ!」

 橘は、机の脇に置いてあったもう一枚の図面を机の上に広げた。そこには、先の図面とはかけ離れた建物が描かれていた。瓦は葺いてない。切妻屋根もない。平らな打ち放しコンクリートの屋根、壁面は煉瓦積みで垂直方向に延び、無駄な意匠や造形は一切ない。一見、未完成に見えるが、水平方向と縦方向に連続した簡潔な意匠はこれ以上何も足す必要がないことを語っていた。

「これは・・・国際様式ではない。とても簡素だけど洗練されています。Ah・・・what to say in Japanese? ・・・分かりました!これは数奇屋ですね!私この意匠好きです!」

「でも、この意匠だと僕は名誉の戦死にされてしまうだろう」

「名誉の戦死?どういう意味ですか?」

「処刑だよ。英語だと・・・execution」

「駄目です!これこそ日本の意匠です。貴方もっと自信持ってください!」

カールは数奇屋と言うが、鬼辻は理解出来ないだろう・・・


 橘は昨晩、夜中に目が醒めた。時計を見ると朝の三時だ。橘の思考は冴えていた。帝冠様式の案を描いたものの、破り捨てたかった。それが鬼辻の要望の為か、図面を見ると鬼辻の奥行きのない眼が浮かんで来る。かといって、国際様式の建築を設計すれば鬼辻にアカ建築と言われることは目に見えていた。

 虫の音が聴こえる。橘は価値観がぶつかる世界にあって、設計だけには一切の観念を持ち込みたくなかった。帝国主義、資本主義、共産主義、そういった観念に束縛されない建築・・・郷里の五重塔が何故か思い浮かんだ。それは、古来より無垢の木材が使われている。そうだ!無垢な素材は主義に左右されない。


「カール、君は正しい。これは日本の建築だ!僕はこれで鬼辻を説得する」



 苦力と英国人捕虜達は淡々と働いている。彼らは手際良く煉瓦を積み上げている。この調子ならば期限の内に完成出来そうだ。そこへ一人の小柄な苦力が伏せ目で橘に近づいて来た。何だろう?苦力はそのまま橘の脇に寄ると襟を掴み日本語で話して来た。


「図面を見たぞ!あれは何だ!わしは帝冠様式にしろと言ったのだぞ!」

小声ではあったが、その声は鬼辻であった。

「つ、辻参謀殿!?」

「大声を出すな!こうしてお忍びで見に来たのだ、それよりも説明しろ!」

「はい。試行錯誤を重ねた結果。この設計こそが、日本建築の真髄であり、世界の潮流に負けぬ一級の意匠と考えました!」

「世界の潮流だと?そんなものどうでもいいわ!あの意匠の何処が日本建築なのだ?」

「はっ。和様の本質とは無垢にあります。故に、煉瓦、コンクリート、タイル、金具それらを可能な限りあるがままの姿で表現致しました。これこそが、新しい時代に相応しい意匠です」

「貴様に機会をやったわしが莫迦だった。アカは何処までいってもアカということか・・・貴様の処分は決まった」

橘は覚悟はしていたが、ここ迄通じないものと知るに絶望をした。鬼辻は南部拳銃を橘の胸に突きつけた。その時、遠くから低い男の声が聞こえた。

「おおい、辻!部下を苛めて対局を見失うなよ!」

鬼辻はその声を聞くなり、銃を引っ込め、苦力の真似をして丸めていた背筋を改めた。そして、声が聞こえる方に敬礼をした。周りにいた捕虜達は、仰天した。

「い・・・石原閣下!庄内でご療養中ではありませんでしたか?」

石原は鬼辻が帝国陸軍の中で唯一尊敬する上官だ。

「最近、状態が良くてな。東条の莫迦がおっ始めた戦争の動向をこの目で見たいと思って昭南島まで来た。ほお、温泉施設の設計か?」

「はっ、私は帝冠様式で設計しろと言ったのですが、このアカ崩れがとんでもないものを設計しまして・・・」

「どれ、見せてみい」

「はっ、これであります」

鬼辻は橘の作業場から取ってきた図面を石原の前で広げた。

「ふむ。確かに国際様式の影響は強い。が、辻よ。帝冠様式など所詮、ばったもんだ。私はこの設計の方が和風に思えるがな。素材そのものを剥き出しで表現する心意気。面白いじゃないか!やらせてみい」

「閣下!アカに甘くしたら碌なことになりませんぞ!」

鬼辻の声が一面に響いた。

「辻よ。罵声を発すれば全て解決出来ると思う姿勢改めい!アカだろうと、シロだろうと、包める大風呂敷がなくては、王道楽土など夢のまた夢よ」

辻は震えながら押し黙り、橘を凝視した。

「ええい、上等兵。好きにしろ!」



 工事は順調に進んだ。カールが捕虜を上手くまとめたお陰か作業は効率良く進み、予定よりも早くセンバワン温泉施設は完成した。鬼辻はガダルカナル島におり、完成を見ていない。大規模な温泉施設は未完成の建物かと見紛われたが、慣れると次第に親しみを持たれるようになった。兵站が不足しがちな中で、鬼辻の杞憂とは裏腹に質素な質感は共感を呼んだ。以降、この場所は将校中心に兵の英気を養う場所となった。



 大東亜戦争末期、昭南島に連合国は島民を巻き込む空爆をした。センバワン温泉も巻き込まれ、施設の大部分は壊滅し、源泉は十年以上枯れてしまった。現在、温泉周辺はシンガポール空軍に接収されており、三つの蛇口と源泉を覆う建屋のみが往時の繁栄を偲ばせる。今でもそこは地元民と、物珍しさに惹かれて来る日本人に親しまれている。


 橘はセンバワン温泉の評判より、戦地を転々として、休養施設を設計して周った。しかし、それらは全て戦火で灰燼と化してしまった。敗戦後、本土に復員するも、戦時中に仕事のなかった建築家達は橘を妬み、彼を戦争協力者と批難した。橘は活躍の場を失い、人との関わりを断つべくいづこかへと消えた。


 高橋は敗戦後、占領軍に潜入していた同志のお陰で釈放され、日本共産党幹部として活躍をする。高橋は一度だけ変わり果てた姿の橘を街で見かけたが、声をかけようとした時には見失っていた。


 カールは捕虜としてシンガポールで過ごした後、戦後は英国で日本建築の研究を続けた。彼の書いた論文は若い世代の建築家に影響を与えた。論文は後に無垢な素材で表現された建築様式、ブルータリズムの理論的支柱となる。この様式は右左の主義に関係なく世界中で採用された。


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