第2話 突然の来訪者と切り裂き魔
日も暮れかけ、エドガーが今日も暇に終わってしまったと一日を振り返ろうとしていた頃、店のドアに吊るされたベルが鳴った。客である。
「いらっしゃいませ」
反射的に、だが揚々とエドガーは店の入口に目をやる。立っていたのはひとりの少女だった。お世辞にも綺麗とは言い難い、労働者然とした薄汚れた格好をした彼女は、つかつかと店内を歩いてエドガーのいるカウンターまで寄ってくる。その歩く姿は、しかし、彼女の服装から想像できない程度には洗練されたものだった。エドガーは、彼が父親の付き添いで招かれた宮廷内の令嬢たちの立ち振舞を思い出した。
「あなたが、ここの店主?」
語弊を恐れずに言えば、エドガーは彼女に目を奪われていたのだろう。服装と裏腹のその仕草は、なるほどそれだけの洗練されたものである。
気づけば彼女は彼の目の前に立ち、エドガーに声をかけていた。よく通る、凛とした声だった。近くで見れば、煤で汚れているものの彼女は整った顔立ちをしていた。きちんとした服装をすれば、それこそ宮廷の舞踏会などでは紳士たちから絶えず声をかけられるのではないだろうか。
「切り裂きジャック、まさか知らないとは言わないでしょうね」
唐突な来訪者の口から出てきたのは、これまた唐突な、目下倫敦を騒がせている連続殺人鬼の名だった。
切り裂きジャック。名も無き夜霧の殺人者。さまざまに英国新聞で取り沙汰されているその無法者によって、この街の夜は恐怖という静けさに包まれていた。
「三度蘇った恐怖の殺人者、か。残念ながらお嬢さん、ここは喫茶店だ。そんな物騒なメニューは取り扱っていないよ」
切り裂きジャックがこの倫敦に現れるのは三度目だ。初めて事件を起こしたのは一八二〇年代と言われている。その犯行は徐々にエスカレートしており、最初の事件では人を殺すには至っていなかったが、二度目の出現、〈切り裂き〉の名を冠する事になった一八八八年の一連の事件では、実に五名の売春婦を殺害している。そして此度、数週間ほど前から噂となっている事件では、二度目の時と同様に、すでに三名の女性が殺され、ほかにも何件か、そのジャックに出会ったと証言する者が現れている。
三回の出現がすべて同一の犯人によるものと目されているのは、これまでの犯行現場でいずれも同一の奇怪な笑い声が確認されていることによる。また前回と今回の出現では、犯行現場に白いチョークで『The Steamers are not The machine That Will Say nothing.』との同じ書き殴りが残されている。約百年にも渡る連続事件であること、書き置きの文言の二点から、当局は犯人であるところのジャックを人工知能の狂った欠陥機関者であると推測し、捜査を行っている。
「あら、〈エイダ〉の店主は蒸気機関者専門の探偵だと聞いたのだけど、違ったかしら? いま世間を騒がせている欠陥機関者を見つけてほしい、それだけよ。噂を信じるのなら、その程度はわけないんじゃなくて?」
少女の口にした連続殺人鬼についてのおおまかな情報を頭のなかで整理させていたエドガーは、再び少女の言葉によって思考を開始する。そんなありがたくない宣伝を広めたのは誰だ。ケビンか、ラッセルか。あるいは、いつもどおりはた迷惑な父親か。なんにせよ、こうしてまた面倒事が持ち込まれそうになっているのだから、誰か分かり次第その広告塔にはコーヒーの味もしっかりと広めてもらう必要がある。税金対策で始めておきつつ面倒だからと親に押し付けられた仕事とは言え、エドガーは自分の店のメニューには自信をもっていた。
「断じて違うよ、お嬢さん。ここは喫茶店で、君が言ったように俺はその喫茶店の店主だ。探偵なんてやっていない」
「ああ、優しいエドガー、いつもそう言って、結局最後は人助けをしているじゃないか。今回も手を貸してやればいい。なあに、大英博物館でのスフィンクス退治や、マクタガート家の令嬢失踪事件よりは簡単そうじゃないか? なにせ犯人はわかっている。そこの女の言うとおり、いかれた蒸気機関者一体を捕まえるぐらいわけないじゃないか」
いままでの厄介事を思い出して話を断ろうとしているエドガーに、きっちりとそれらの厄介事を引き合いに出すことを忘れず、シャーロットが口を挟んでくる。憎らしい微笑み。
「百年前から捕まっていない連続殺人犯だぞ? だいたいそれにしたって、今回もそいつだろうという憶測だ。犯人がその切り裂き某かもわからなければ、そもそも蒸気機関者なのかも定かじゃない。確証のないものをわけないと言うのはお前らしくないじゃないか、シャーロット」
「少なくとも、最初のジャックは欠陥機関者だ。確証はあるさ。なにせ私は当時そいつと出会っているんだからな」
さらりと言ってのけるシャーロット。切り返されたエドガーはおもわず呆けてしまう。依頼を持ち込んできた少女も訝しげな目で見ている。
「……もしあなたが最初のジャックに会ったことがあるというのが本当なら、私の依頼をここに持ち込んだのは間違いではなかったということになるけれど。あなた、何歳なの。私より小さく見えるけど」
「さしずめ、最も古く偉大な蒸気機関者といったものだよ。ところでそろそろ名前を聞いてもいいかな、お嬢さん。私はシャーロット。知っているかもしれないが、君が訪ねてきたこっちの男がエドガーだ」
「驚いたわ、あなたのような蒸気機関者がいるなんて。私はキャサリン。よろしく、シャーロット」
彼女の事情を知ると、それをすんなりと受け入れられたのか、キャサリンは差し出されたシャーロットの手を握り返す。
「エドガーの名前は聞いていたわ。それこそ大英博物館の話は私も噂で聞いたことがあるもの。でもシャーロット、あなたの名前は初めて聞くわね」
「おや、あの事件を知っているなら、スフィンクスを模した蒸気機関者を止めた《伯爵》のことは聞いていないかい?私はその《伯爵》の持ち主だよ」
「あら《伯爵》の? 大型の蒸気機関者を破壊したというのだから、どれほどの屈強な紳士かと思っていたけれど、あなたのような小さな女の子だったなんて!」
二人は知り合ったばかりだというのに仲睦まじげに話をしている。これも傍目には、少女たちが楽しげに話を盛り上がらせているだけにしか映りようがないのだが、エドガーはシャーロットが人間然とした態度で毎度この手の厄介事を持ち込む依頼人たちと話し込むことに微かな苛立ちを感じていた。なぜなら彼には、この後の展開が概ね予想できてしまうからだった。
「ああ、それにしてもキティ。どうやら君もこの英国と倫敦を愛してやまない善良な一市民のようだ。そんな君ならば、かの切り裂きジャックの凶行を止めたいと懇願する気持ちもわかる」
早くもキャサリンのことを愛称で呼びつつ、仰々しく、芝居がかった動作を加えながら、シャーロットはこちらをにたりと見据える。
「なあ、エドガー。こんな彼女の真摯な願いを、英国紳士たるお前がどうして断れるんだい? いや、まさか断るとは言うまいね」
そうして、依頼人の期待に満ちた目を裏切れず、この悪戯心に満ちた目を前にしてしぶしぶ頷いてしまう自分の姿さえ目に見えていたエドガーは、どうしようもない自分の性に情けなさを感じるのだった。