橙の愉悦。
ご無沙汰しておりました。
今回は、橙が初めて朱に会う話です。
かなり短めですが、ごゆるりとご覧ください。
少し薄曇りの、まだ涼しい初夏の暁。
渓流の軽やかな水の音を聞き流しながら、橙は期待に胸を膨らませて楠木の上で杏を待っていた。
とうとう杏が、義兄弟の朱に会わせてくれるというのである。
昨日撫子に言われたらしく、昼に遊んだあと夜に楠木で待ち合わせ、そこで明日の稽古後に会うことを決めた。
「どんな子かな、仲良く出来るかな。」
嫋やかな梢が音を立てないように慎重に、まだ見ぬ新しい友達を、ただひたすらに待っていた。
つと、目を向ける。
草木のさざめき、小鳥のさえずり。
その中に、こちらに歩を進める足音が三つ。確かに聞こえた。
一つは、飛び跳ねるように軽快な杏の足音。
一つは、さく、さくと高下駄の音。
一つは、ほとんど聞き取れない静かな音。
(来た………!)
橙は、興奮を留めきれず、目は木漏れ日の如く輝いていた。
常盤の玲瓏と響く声が、辺りのしじまを満たす。
「二人とも、用意は良いか?」
「はい。」
「はい。」
二つの声が、凛と重なる。
聞きなれた溌剌とした声ともう一つ、何処か深く、淋しげに響く声。
子供の声だけに一層際立つそのなんとも言えない切なさは、やけに橙に似ていた。
俄然、興味が湧いた。
(………ここからだと、よく見えないな。)
橙は、萌黄色の若葉繁る枝の陰からそっと、朱の様子を見た。
鳶色の癖毛が、ふわりと微かな風になびく。
途端、目を見開いた。
肩に揃えた朱殷の髪は、鮮血を流すかの如くそよ風に揺らめいている。
切れの長い望月色の瞳はきっと光り、白くすらりとした体躯は何処も彼処も柳のようにしなやかでありながら、鍛え上げた鋼の気配を纏っている。
(………美しい子だ。)
ただ素直に、そう思った。
見目麗しいばかりではない。
跳躍、疾走、足蹴、打撃、思うままにくるめく手が、脚が、まるで舞のように流麗に動く。
常盤や杏との相対稽古など絵のようで、橙は我を忘れていた。
この世に見た全ての美しさにも勝る。
常世に踊る天女にさえも。
この時、本気で橙は、そう信じて疑わなかった。
つい先刻までは耳についた鳥のさえずりも木の葉のさざめきも耳に覚えず、ただ目を奪われ、呆けたように魅入っていた。
「………これにて、稽古は終わりだ。朱は、動きが多彩になってきた。杏は、気配の強弱が巧みになったな。」
稽古が終わったのは正午。
杏と朱は、弾んだ息を整えもせず渓流に倒れ伏していた一方で、常盤の平然とした顔たるや、まるで面のよう。
橙は、やっと我に返った。
俄かに草いきれや金砂の木漏れ日、獣や鳥の鳴き声が蘇り、現へと戻ってきた心地がした。
それほどまでに、先程の光景は夢心地であった。
「………師匠ー、俺ら遊んでから帰るー。撫子姉さんにおむすび作って持ってきてるから、夕餉まで帰らないかもしれない。」
「相わかった。だが、あまり遅くならないようにな。」
常盤は、風に髪を遊ばせ、森の中へと消えていく。
帰り際、常盤が柔らかな目で此方を見上げ、唇だけでよろしく頼むと言われたので、橙は危うく腰を抜かしそうになった。
よもや気づかれているなどとは、考えもしなかったのだ。
「なあ、朱。」
杏の声で、ふと我に帰る。
「なあに、杏。また新しい遊びでも思いついた?」
既に息を整えたらしい朱は、笹の葉で舟を形作り、渓流へと流しながら目も向けず応えた。
「この前話した、新しい友達、呼んでいい?」
俄かに、朱の動きが止まった。
橙の位置からは顔が見えないが、笑顔でないのは確かだ。
そう思えるほど色濃く、朱は気配を変えた。
(……ボクじゃ、嫌なのかな。)
橙は、蜜柑色の零れ落ちそうに大きな瞳を、少しだけ潤ませた。
幼子の姿をしているとはいえ、幾千年も生きてきた妖である。
今更涙など流しはしないが、代わりに悲しみが胸の内に冷たく流れ込み、冷えた涙の行く先となった。
涙の湖は瞬く間も無く満ち、もう帰ろう、と音を立てずにくるりと小さな踵を向けたその時。
朱の、冴えた声が、聞こえた。
「僕は嬉しいけど、その子は良いの?人の子と戯れたなんて噂されてさ、村八分にされかねないよ。現に杏や撫子姉さんだってそうだし、師匠ですら一部の妖には『酔狂妖狐』だなんて呼ばれてる。その子が可哀想だよ。」
あまりに的を射た答え。
子供と聞くには辛いほど穿った考え。
思わず、胸が痛んだ。
なんと不憫な子であろう。
最早それを日常と受け止め、更には周りの不幸は全て自分の所為だと激しい自己嫌悪に陥っている。
あまりにも静かで寂しげな声は、一体いつからその子の地声となってしまったのだろうか。
「だから………。」
「ボクを、そんな奴らと同等扱いしないで欲しいな。」
先刻まで足の下にいた朱が、目の前にいる。
当たり前だ、橙が朱の目の前へと不意に飛び降りたのだから。
朱は、突然のことに目を白黒させていた。
橙は、朱をじっと見つめた。
近くで見ると、尚美しい子だ。
「初めまして、ボクは橙。よろしくね。」
そう言ってにこっと笑む。
無邪気で、肯定以外の返答などまるで知らない幼気な笑みである。
この笑顔を浮かべると、誰もが逆らえなくなることを橙は知っていた。
「僕は朱。………でも、本当に良いの?」
自己紹介しながらも不安げな顔で橙を見つめる朱。
その望月のように見事な双眸に映った橙は、途端に少しだけ苛立ったような表情を見せた。
「しつこいなぁ。名乗ったんだからもう友達なの!ボクが良いからもういいの!ね?」
少し強引に手を握ると、やっと観念したのか、朱の両の瞳は望月から三日月へと姿を変えた。
辺りの空気が、途端に甘美なものに様変わりする。
「……よろしく、橙。」
隣で、杏が顔を輝かせて笑うのが目に入った。