常盤の慈愛。
こんにちは、桜人です。
ようやっと一話目が投稿出来ました。
独特すぎる世界観ですので、苦手な方はUターン&全力ダッシュを推奨します。
大丈夫と仰って下さる方は、どうぞ。
「日出ずる国」即ち日ノ本は、「月陰る国」即ち月ノ陰というもう一つの顔を持つ。
月ノ陰は、人と人ならざるモノが入り混じる、異形も当然の、怪異に満ちた世界。
所謂「異次元」「異世界」といった類のものだ。
何処から漏洩したのか、
鳥山石燕やその他諸々が異形、即ち妖の絵姿などを後世に描き残しているため、
妖は今日尚日ノ本でも知るところとなっているが、その他のことはお互い何も知らない。
それどころか、私達日ノ本に生まれた者は、月ノ陰などと言う世界などとんと知りもしないし、勿論月ノ陰の者も、日ノ本などという国は知らない。
見たことも聞いたこともないものを、往々にして人は「想像」「妄想」「夢」で片付けてしまいがちである。
だが明晰に言っておこう。
これから書く事柄は、決してお伽話などではない。
彼は誰時の夢でもなければ昼間の暇にみた幻でもない。
月ノ陰でかつてたった一度だけ起きた、とある革命の記録である。
ある日のこと。
一人の男が、山道を悠然と徒歩で散歩していた。
広めの網代笠の中で涼しげに揺れる藍下黒の長い髪。
切れの長い黒曜石の瞳。
紺の単と長袴、透けるような薄い水色の狩衣で包まれた日焼け知らずな白磁の肌。
黒に鼻緒が紺の高下駄を履いているが、それなしでも分かるであろう長身痩躯。
額には淡い百花王の花鈿。
花街の女どもが一斉に色めき立っても可笑しくはないほどの清冽の美貌である。
その男______常盤は、腕に一匹の年老いた猫を抱いていた。
亜麻色の毛足は長く、緑色に煌めく目はなかなか賢そうな猫だ。
こうも美しい猫を抱いて、何やら満足げな笑みさえ浮かべながら帰途をたどる様子は、もしや妓楼の帰りかと考えたくもなるが、土産も持たず、鼻緒も行きと変わらないところを見ると、そうでもなさそうだ。
さて、常盤は猫を拾ったことでなかなか機嫌が良かった。
もし何もなければ、そのまま上機嫌で自分の里へと帰っていったろう、そして何事もなく日記のようにこの記録も終わるのだろうが、そうは問屋が卸さないのが世の常である。
常盤の耳は、微かな音を拾った。
気のせいかと聞き流そうともしたが、西風が運ぶ妖の血の臭いが気のせいでは無いことを何より明確に伝えている。
「はて、何事か………。」
常盤は口を開いて呟いた。
水面に落ちる雫の立てる音のような、不思議に心に沁み入る声である。
もう一度、常盤は耳をそばだてた。
「………、………。」
森の静けさのせいか聡い耳のせいか、常盤は半里ほど離れた寂れた人里の騒ぎを、すぐに聞きつけた。
(………赤子の声か。)
常盤はすっと身を翻した。
と、そこにもう常盤の姿はなかった。
「日照り、凶作が続いとる。争いも耐えんばかりか、流行り病まで………。」
「長、どうします?」
「長、ご判断を。」
「……或いは誰ぞ、土地神様のお怒りに触れたのかもしれぬ。生贄を出そうか。」
「う、うちはどうか御勘弁を……。」
「うちも……。」
「……三日ほど前、赤子を拾うたな。あれにしよう。」
「あぁ、あの不吉な。」
「あれならば……。」
「よそ者の捨て子とあらば……。」
「恨むなよ赤子。恨むならば、己の姿を恨むのじゃな。」
赤子の泣き叫ぶ声の響きわたる祠の影に、ようやく常盤は到着した。
赤子の傍には、紫水晶の柄に柘榴石で細工してある、鋼の刃が金剛石で薄く覆われた諸刃の剣が備えてある。
白い肌は最早妖の鮮血で洗われ、今にも殺されそうな様子だ。
このような切羽詰まった時に少々不謹慎かも知れないが、常盤の目が最初に吸い寄せられたのは、赤子の持つ見事な髪であった。
朱殷の見事な柳髪は血でも吸わせたかのように深く紅く、悲壮感さえ漂わせる一種独特な美しさを持つ髪だ。
普段は湧かない何らかの激情が、常盤を突き動かした。
「お、おい、あそこ……。」
「うわぁぁぁぁああ!」
不意に、若い村人が腰を抜かした。一点を見つめたまま、地震もかくやと震えている。
視線を追った村人達も、皆一様に同じようになって行く。
最後の村人の手が地に着くと、視線の先の[あるもの]は、ゆらりと蠢き、厳かに話し始めた。
《………我、土地神の友なり。》
厳粛な声の響くと同時に、地響きが微かに聞こえる。
《土地神は、烈火の如く怒り狂うておる。》
晴天に雷鳴が轟き、[あるもの]の周りに、霧が立ち籠める。
《……されどそなたらが、その赤子と剣をこちらへ渡すと言うのならば、こちらにて凶事は処理するが……?》
地の底から這い上がるような恐ろしい声。
鬼哭啾々の気配、村人の中でも気の弱いものは、とうに気を失っていた。
そんな村人達にとって、答えは一択に等しかった。村に何の繋がりもない不吉な赤子を渡すのにわざわざ勿体振る理由などない。
「わ、渡します渡します!」
早く持って行ってくれと言わんばかりに、村長は手を振った。
《……後悔すまいな?しかと貰い受けたぞ。》
藍下黒の見事な毛並みを持つ巨大な妖狐は、赤子と剣を咥えると、たちまちのうちに消え去った。
深く、広大な森を、先刻と同じように歩む常盤。
大腿辺りで揺れる髪、玲瓏とした瞳もそのままに、高下駄を苦にもせず悠然と歩いている。
ただ一つ先刻との相違点は、赤子を別の腕に抱いていることだ。
先ほどまでの威勢は何処へやら、赤毛の赤子は幼気な寝顔を見せている。
別の腕の猫は、赤子を至極気に入ったようで、二股に分かれた長い尾でしきりに赤子の頰や腹を撫でている。
その様子に思わず笑みながらも、常盤は一心に里の気配を辿っていた。
「私だ。ただいま帰った。」
「天狐様、おかえりなさい。」
少し質素だが格式ある和屋敷の、上がり框をひょいと上がると、肩で切りそろえた墨色の髪を揺らして、少女が出迎えてくれた。
撫子の花模様の白い着物に、
貝の口に閉めた黒い細帯、淡い色の帯締め。
座敷童子の、撫子だ。
「“天狐様”は、やめておくれ。第一私は、まだ妖狐だ。」
軽く首を振って苦笑する。
まるで葉ずれのように軽やかな笑い声だ。
撫子は耳心地の良い笑い声に目を細めていたが、常盤の抱えているものに気づくと、驚いたように声を上げる。
「何か拾っていらっしゃったのですか?
あら、猫又の赤子に人の赤子、おまけに美しい剣まで。」
綺麗な髪、と、撫子は赤子の頭を撫でて、髪を弄びはじめた。
赤子は心地いいのか、夢現に甘えるような声を出す。
「この子らは、どちらともここで、私が育てようと思うのだが、どうだろう。」
答えをわかっていながらも一応の了承を得る為、常盤は尋ねる。
撫子の丸く円らな双眸が、ぱっと光を宿した。
「やった!ええ勿論歓迎しますわ、遊び相手が増えるんですもの。」
弾けるように笑った撫子は、猫を優しく抱き上げて、赤子の手をそっと握りながら、
「よろしくね。」
と、呟くようにいった。
その日の夜、鈴虫の歌い声が見事に冴え渡る庭園の縁側にて。
「さて、この二人の名は、どうするか…?」
猫又と人の子の名について、常盤は頭を抱えるほど悩んでいた。
無論、仮の呼び名は決まっている。
猫又の方は、杏。人の子の方は、朱。
どちらも毛の色から取った、簡素な名である。
問題は、真の名の方だ。
真の名はそのものの性質、運命、総てを決めるものである。
美しいか、醜いか。聡いのか、愚かなのか。強いか、弱いか。幸あるのか、不幸のみか。
下手な名にしてそのものの生涯をつまらないものにしてしまう者も、少なくない。
(出来るだけ意味を込め、かつ秀逸な名…。)
常盤は、我知らず頭に手をやった。つきん、と、頭痛が走った。
これほど頭を働かせたのは、何百年ぶりか。
「………少し、疲れたな。」
常盤は、一旦思考を止め、何とは無しに虚ろな疲れ目を見事なまでに月映えのする庭園に移した。
鹿威しの音が束の間の静寂を緩く裂く。
北には黒い枯山水、
南には池と紅葉や紅梅、木瓜に椿の木、
東には竹林と東屋、
そして西は白梅や沈丁花、白椿に雪柳。
この里で最も美しいと言われる庭園。
東西南北の方向から小川が流れ、池に通じ、池からまた、近くの水簾へと流れる。
美しい、と、素直に思った。
幾千年見ていてもその静かな絢爛は見飽くことなく、この佳境の優しい色差しが、疲れた目と廻り辛くなった頭脳と意識をそっと癒してくれる。
今こそ常盤のものとなったこの庭園を創り上げたのは誰なのか、そのものは何を思ってそう運命付けたのか。
「……私のようなしがない妖狐に、このようなものが手に入るとは、未だ信じられぬ。はてさて、まこと何の因縁か……?」
苦笑混じりにそう呟いた時、常盤の頭の中に、ある考えが閃く。
「因縁……。これも何かの因縁。ならば、そう名付けてしまえば良い。」
常盤はすたすたと杏の方に近づき、美しい宝石を守る瞼に、そっと口付けた。
端正な顔が、俄かに荘厳な雰囲気を纏う。
「そなたは、因。」
次に朱の方へ向き、美しい髪に口付ける。
「そなたは、縁。」
そして、徐ろに二人の額辺りに己の手を翳す。
刹那、ぽう、と青白い光が浮かんだ。
常盤の硝子のような目が、自ら生んだ光と、庭園のあらゆるものを反射して、七色に煌めく。
「そなたら二人の、あらゆる因縁を結ぶ呪いを授ける。比翼の鳥とは当たらずとも遠からず、だが限りなく近し関係を。私からの祝福を。あらゆる妖の加護、あらん事を。」
常盤の低く呟くような声がやがて止むと、七色に染まった光は二人の額から体内に宿り、魂を柔く縛り付けた。
常盤はそのまま二人に向かい、厳かに頭を下げた。
暫しの間、時が止まったかのような沈黙が辺りを支配していた。
それから更に数刻過ぎた辺りだろうか、張り詰めた静寂を見事に切り裂いたものがあった。
「天狐様ー、入ってもよろしいですか?」
撫子の声だ。きっと夕餉が出来たのであろう。
途端、常盤は目を開ける。
赤子と猫又が目に飛び込んでくる。
(____________成功した。)
そう悟った瞬間、膝から崩れ落ちた。
額には酷く汗をかいていて、襦袢が鬱陶しく感じるほど張り付いてくる。
呪いは、成功した。
この呪いが時を経て結ばれるのなら、不憫な赤子も猫又も報われる筈だ。
汗を拭ってから良いぞと返事をすると、すぅっと静かに障子が開いた。
山菜の香りが、ふわりと入ってくる。
「………御呪い、成功しましたか?」
少し不安げに尋ねる撫子の頭を、優しく撫でながら常盤は、花綻ぶように笑んだ。
「成功した。」
「………っ、ありがとうございます!」
やっと出来た大切な存在が、どうやら消し飛んでいないことに安堵した彼女は、すぐさまいつものような元気を取り戻す。
喜んで抱き上げようとした刹那、ふと常盤に尋ねた。
「天狐様、猫又の子は人型を与えずともよろしいのですか?」
「あぁ、そうであったな。」
忘れていた、とばかりに常盤は杏を抱き上げて、すっと掌を杏の顔前に翳した。
今度は琥珀色の光が瞬く間に杏を包む。
暫くすると、亜麻色の毛の年老いた猫は、美しい亜麻色の髪を持つ赤子に姿を変えていた。
「あら、美しい赤子が増えましたわ。」
「赤毛の方が朱、猫又を杏と言う。どちらも男だ。まだ赤子の頃は、世話を宜しく頼む。」
「承知です!」
「さあ、夕餉を頂こうか。」
「はい!」
君たちの分もちゃんとあるのよ〜、と撫子は破顔したまま軽々二人を抱き上げて立ち上がる。
振動で起きたのであろう赤子達は、初めて嗅ぐ匂いに目を見開いている。
食事の間に歩み去る二人の背に庭園は、相も変わらず佳境たる壮麗の笑みを浮かべ、密やかに佇んでいた。
月夜鴉が、一声鳴いた。