その目
線が綺麗なんだ。
こう、曲線なんだけど、なめらかで、まるで、曲がっていないかのように真っ直ぐに見える。
矛盾している。
そう思ったときにはもう、目の前に対峙したものはいなくなっていて、あるのは、きれいに断絶された血すら流さない肉塊のみなんだ。
見ていて、ほれぼれした。
だが、それは傍らで見ていたからであって、いざ目前でその刀が振るわれようとしてみれば、どうだ。
恐ろしい。
そんなものではない。
言葉にならない感情で、体が言うことを聞かない。この男とだけは、敵対したくない。そう思いながら生きてきたのに、どうして。
「…………」
男は季節と逆行するかのように上着を羽織っていた。今すぐにでもボロボロと端からその原型を失ってしまいそうな、焦げ茶色の外套はところどころ破け、はたしてその衣服としての義務を果たせているのか怪しかった。
男は生来の険しい顔のままで、ただ、黙していた。その纏う外套だけが風に吹かれ、はたはたとうるさかった。
「あ、あんたは、なんのために剣を振るってきたんだ、こんなことのためなのかよっ。俺は、あんたの剣の真っ直ぐなところが気に入ってたのに」
手に、力がこもらない。恐怖と失望とで身体がいうことを聞かないのだ。何もかもが想定外だった。いったい誰が予期できたであろうか、この忠義に厚いと評判の男が、王家を滅亡させようと画策していたなどと。
すべては一瞬のことだったのだ。男が剣を抜いたことすらわからぬまま、王の間にいたものはこときれていた。俺が本の少し式典の重たい空気から逃げ出した間に起きた、そんなできごと。俺はバルコニーでその様子をただ、口をポカンと開けて見ていることしかできなかった。
鮮血のない、虐殺。
圧倒的なまでの剣にはよもや、抑えうる力が存在しない。
すべての生首が、驚いた顔のまま時を止めていた。
ただ、静かな光景をグロテスクに飾るだけのものになり下がったものたち。彼らはすべて男から視線を外していた。まるで、男の見られたくないという意思を尊重するかのように。
いや、違う。
死者は他人の意思など尊重しない。ただ、ひたすらに男の剣技が至高であるがゆえになし得た離れ業なのである。
すべての首の後頭部に囲まれて、男はただ、剣を納めた。
謁見の間でその信頼の大きさゆえに唯一帯刀を許されたその剣の刀身は血を払われてもいないのに、どこにも赤をまとうことはなく、ただ、その本来の黒色をより深く艶やかに見せるのみだった。
「……これは剣ではない。刀だ。端から曲がっている。どこまでいっても真っ直ぐにはならん」
「何に憤ってる? どうしてこんなことを」
「今から死ぬものにいったところで、余計に冥土への道を惑わせるだけだろう。黙してただ死ぬといい」
男が剣……いや、刀を大上段に構える。なんて隙の多い構えなのだろう。だが、その隙をつけるものなどいないのだ。だから、この男にすればどんな奇抜な構えも、正道となり、必殺の前触れとなる。
俺はその刃が自分を貫く瞬間を、あるいは、切り裂く瞬間を忘れないようにしようとあえて目を見開いた。
もう、すべてを諦めていたのだ。
なぜか、死への恐ろしさは消えていた。
絶対に死ぬとわかったとき、それを恐れてビクビクするのはただバカらしいと、気づいてしまったのだ。
さあ、こいとまでは言わない。
ただ、この瞬間を、美しき最後の剣閃を、たとえほんの一時でも逃さぬようにじっと睨み付けた。
それは、まるで永遠のように長い時間だった。
やつれた、年齢よりずっと老いて見える男の顔。その表情は変わらない。無慈悲というのではなく、もとよりこの男には感情などと言うものが存在しないのではないかと思われるほどの圧倒的な無表情だった。
やがて、男の刀が空にしかれた優美な線をなぞるように、艶やかな死を運んでくる。
そこに一切のブレはなく、一切の迷いもない。
ただ、ゆっくりと、刃先は俺の首もとへと流れてくる。一定の速度で、焦ることもなく、緩まることもない速さで。
ーー不意に、長いな、と感じた。
いったいいつになればこれは終わるのだろう?
なんだか、あまりに時間の流れがゆっくりとしすぎてはいないだろうか。
まるで、避けようと思えば、避けられてしまいそうだな、と思った。
なら、試しに動いてみようか。
俺は、男の描く、死への道を避けるように首を後ろへのけ反らした。
すると、男の刀は俺の首の表面の肉を何ミリかえぐっただけにとどまった。
「なっ」
男の狼狽える顔がおかしかった。
おかしい。
追い詰められているのは俺なのだ。
それなのにどうしてこの男は、恐怖を顔ににじませているのか。
「あーあ、死にぞこなった。もう、次こそ一思いにやってくれ」
俺は半分本気でそんなことを言ったが、この時点ですでに、気づいていた。ああ、この男は恐らく、俺を殺すことはできないのだろうと。
「お前は……そうか……遅かったか……」
「何が、遅かったんだよ」
打ち勝ったつもりの恐怖がぶり返し、喉が震えて情けない声になった。わかってる。強がったところで、俺は今圧倒的に弱者だった。
「…………もう、やめだ。俺は疲れたよ」
「そりゃあそうだろうな、世話になった王家の人間を俺以外皆殺しだからなそれも1日で」
「黙れ」
「…………」
「もう、いいんだ。もう、いい。お前は生きろ。俺はお前を救うことはできなかった」
男はまるでこの世のすべての不幸を背負っているかのような顔を手で覆った。見れば、刀はもう構えられていなかった。
俺は気がついた。ああ、どうしてもなにもない。この男は狂ってしまったのだと。
「救う? 生きてるより死んだ方が楽ってことか?」
「黙れ」
「自分語りか黙れしか言えないのかよ。なんなんだ。俺はあんたを尊敬してたよ。心底な。でも、今はあんたがわからないよ」
「もう、いい。終わったんだ。すべては水の泡だ。お前だったのだ。俺の嗅覚はなんのやくにもたたなかった。お前を、嗅ぎあてることができなかった」
どこまでも、意味のわからないことを口走る男にたいして、いよいよ腹が立ってきた。恐怖なんて死を目前にしたせいで消えていたし、男が俺の命をとることがないとわかった以上、覚えるのはただただ家族を奪ったかつての恩人への恨みだった。
「父さんはみなしごだったあんたを、養った。俺の剣の指南役にした」
俺は、男の少しでも苦しむ顔が見たかった。苦しむべきだった。でなければ、俺の家族はあまり報われない。
「母さんはあんたを自分の息子のように思ってた。俺なんかよりずっとあんたのことを、愛してた」
「兄貴はあんたのことを話すとき、恋した乙女みたいで気持ち悪かった」
「姉貴は……あんたのことを、心のそこから想ってた」
「…………」
「あんたが踏みにじったのはそういうものだ。俺はあんたを許さない。絶対にだ」
俺はかつての指南役だった男の反応を待った。睨み付け、思い付くだけの負の感情を視線にのせる。
なぜだか、俺の感情に答えるように、目の周りが熱かった。火がつくように、熱い。と同時に心地よい不思議な感覚だった。
だが、男はただ顔を覆った手のひらの合間から、俺の瞳を憎々しげに見ただけだった。
「その目だ……」
それだけ言うと、男は、俺の目の前から姿を消した。
それ以来俺は、希代の狂人、王家殺しのレイ・ヌーベルヌの消息を知らない。