コーシの存在
サキは降りしきる重く冷たい雨の中で一人佇んでいた。
逃げるように後にしたレイビーを、振り返ることもできない。
中央区の裏路地に人目を避けるように入ると、瓦礫の中で子猫のように弱々しく泣く赤ん坊の声が聞こえた。
サキは瓦礫に近付くと、しばらく無感情にその赤子を見下ろしていた。
細く痩せた赤子は、人影に気付いたのか泣くのをやめた。
代わりに閉じていた瞼が薄っすらと開く。
ライムグリーンの瞳の中に、一筋縦に伸びた瞳孔が見えた。
目が合うと、サキは思わず後ずさりをした。どこまでも無垢な瞳は、地獄に落ちた自分とは相容れないものに思えたからだ。
「…レカナ・イルコーシ…」
サキの口から勝手に名前がこぼれ落ちる。
それはサキ自身が幼い頃に見た、無垢と許しを携える女神の名だった。
降りしきる冷たい雨の中、気が付けばサキの腕には温かいものが抱えられていた。
別に育てるつもりで連れ帰ったわけじゃない。
本当に、気が付けば連れてきていたのだ。
付け焼き刃の知識で与えたぬるすぎるミルクを、赤子は必死で飲んでいた。
腹が膨れると、サキの腕でそのまま眠りにつく。
高い体温だけがやたらと伝わってきた。
すやすやと眠るその頬に、一粒の滴が落ちた。
それは後から後から赤子の上に降り注ぐ。
サキは赤子をきつく抱きしめると、一人声を押し殺してうずくまった。
赤子は安らかに眠ったまま、ただサキの懺悔の滴をその身に受け止め続けていた。
サキは暗い部屋で目を開くと飛び起きた。
途端に身体中に走る痛みに一瞬顔をしかめる。
ざっと辺りを確認すると、荒げた呼吸を落ち着かせた。
「…第三地域…か」
思えばこんな風に意識を手放したのは何年ぶりだろうか。
ふと隣を見ると、コーシがぐっすりと眠りこけている。サキは深く息を吸うと目を閉じた。
「コー…」
小さくつぶやくともう一度ゆっくり瞳を開く。
つい最近まで赤ん坊だったコーシが、気が付けばこんなにたくましく大きく育っている。
軽く揺れる茶色い前髪に触れると、サキはためらいながらその頭を撫でた。
手の先から伝わる体温に、はっとする。
いつだって、コーシはその存在だけでサキの全てを許してくれる。
「コーシ…」
彼を名付けたのは自分だ。
今更ながらその由来の勝手さに苦いものがこみ上げる。
「お前はもう、自由になれ」
最後に自分が刺した左肩に手を添えると、鋭く痛む胸にその瞳が揺れた。
サキは静かに立ち上がると、暗い部屋を音もなく後にした。
深夜を回る南区は、その闇に全てが沈んでいた。
M-Aは予想通りに暗闇に姿を現した影にため息をこぼした。
「サキ」
呼びかけるとその影はぴたりと足を止める。
「…どこ行くねん。またどこぞで一人ぶっ倒れる気かお前」
「M-A…」
M-Aは吸っていた煙草を捨てるとサキに近付いた。
「あいつから逃げるなや。一回ちゃんと、あいつの声も聞いたれ」
「…違う。コーを俺から、解放するんだ。あいつは俺のために生きてるわけじゃ…ない」
M-Aはサキの右腕を思い切り掴んだ。
「分からん奴やな。コーシがそう言ったんか?違うやろ!?お前はただ怖なったんや。コーシがお前にとってどれほど大事な存在か、今回のことで突きつけられたからなぁ」
「違う!!俺はもう…」
「何が違うねん!!今度は…レイビーじゃなくスラムからでも逃げる気か!?」
サキは勢いよく右手を振り払うと声を荒げた。
「もう嫌なんだよ!!!俺には良くも悪くも周りに大きな影響を与える力がある!!それにコーをもう巻き込みたくないんだよ!!」
静寂に悲痛な叫びだけがこだまする。
M-Aは漆黒の瞳でサキを見下ろすと太い腕を組んだ。
「…コーシはこの一年、死ぬ気で生き抜いてきた。それは、お前のところに戻るためやぞ」
「…」
「あいつは自分で選んで今お前の隣まで辿り着いたんや。その意味が、ほんまにお前には分からんのか」
サキは苦悶に顔を歪めると大きく目をそらした。
M-Aは何も答えないサキの胸に拳を当てると、軽く力を込める。
「一人で苦しむなよサキ。コーシだけやない。俺らかって…選んでお前と共におるんやぞ」
サキは俯くと弱々しく頭を振った。
「…やめてくれ…。もう、これ以上は…」
言い切らないうちに背を向けると、闇の中へ歩き出す。
全てを拒絶した背中を、M-Aは追わなかった。
大きく息を吐くと煙草を取り出す。
再び訪れた静寂に耳をすませながら、一人静かに空を見上げた。
「…あいつもようやっと人らしいジレンマに陥っとるんか…。そう考えると、悪ないな」
一本だけゆっくりと吸い終わると、M-Aも違う方向の闇の中へ姿を消していた。