愛のことば
救急部隊が来てから五日目。
慌ただしかった第三地域もやっと落ち着きを取り戻した。
サナは毎日夜遅くまで怪我人の元を周り、それが済むとまだ眠ったままのアオイの隣で少しだけ眠りについていた。
いつもなら朝早く起きてまた怪我人の元へ向かっていたが、流石にこの日は疲れが溜まりすっかり眠り込んでいた。
朝の光が眩しく瞼に当たり、起きなければと瞳を開く。
だがその気怠げな瞳が開ききらないうちに温かい感触が唇を塞いだ。
視界にオレンジ色の柔らかい髪が映ると、そのままもう一度目を閉じて体を預ける。
とろけるように幸せな夢に、サナは微笑を浮かべていた。
「サナ、おはよう」
耳元で優しく響いた馴染んだ声に、サナは途端に目が覚め飛び起きた。
「あ…アカツキ!!」
何日かぶりに見る優しいダークブラウンの瞳が、自分を見下ろしている。
サナは信じられない思いでアオイを見つめた。
「…サナ?」
「…と…」
サナはアオイの頬に触れると、後から後から溢れてくる涙に声を詰まらせた。
「二度と、目を覚まさないんじゃ…ないかって…」
言い終わらないうちにアオイの胸に額をつける。
アオイはサナの背中を撫でながら柔らかい髪に口付けをした。
「ごめんサナ。もう、大丈夫だから」
「アカツキ…」
アオイがもう一度サナの赤い唇にキスをしようとした直前で、横からわざとらしい咳払いがした。
「ええ加減にせぇやアオイ。お前ら二人だけと違うんやぞ」
サナが慌てて辺りを見回すと、微笑ましく見守る女たちと目があった。
「気にするなよM-A。したいことを我慢するのは体に良くないじゃないか」
「お前五日も眠っとったくせに起きた途端えらい元気やないか」
M-Aは癖で煙草を取り出すと、すぐさま横についていた女に注意された。
今いるのは病院と化した工場の近くにある民家の一つだ。
絶対安静を言い渡されたサキたちの為に、住人が好意で提供してくれたのだ。
「これであと目が覚めんのはコーシだけか…」
M-Aは白い顔をしたまま眠るコーシを覗き込む。
アオイは医療設備を見回すと感嘆の吐息をこぼした。
「それにしても市街の最先端設備がよくこんな南区に揃えられたね。目が覚めた時本気でここがスラムなのかしばらく悩んだじゃないか」
「あぁ、ソルトベーコンがあの後すぐ手配したみたいだな。ハードハムの権限を振りかざして救急部隊を引っ張り出して来たらしいからな」
「…なるほど。最大限ハードハム氏の株をここで上げるってわけだね」
M-Aは優しい顔をしたひねくれ者を見ながら頭をかいた。
「まぁ、それで俺らが助けて貰ってんねんからええやないか」
M-Aは体を伸ばすと立ち上がった。
そわそわと懐を探っている様子からすると、外でこっそり煙草を吸いに行くようだ。
「アオイ、お前サナによう礼言うとけよ。
確かにハードハムのお陰で助かったけど、その前にそこの工場を病院代わりに整えて第三地域の住人を説得して受け入れさせたのは、そのちっこいサナ一人らしいぞ」
M-Aが言い残して部屋を出ると、ベッドを整え直していた女たちが揃って頷いた。
「朝の早くからボロボロのこの子が泣きながらあたしらの所に飛び込んで来たんだよ」
「第四地域に出向いていた男の中には私たちの旦那や息子だっていたんだ。私たちも何かしてやれたらってずっと思ってはいたんだけど…」
「この子、戦いはもう終わる直前なのに、終わっても怪我人を収容する場所すらない。
このままでは勝っても負けても誰も生き残れないって必死で訴えてたのよ?」
サナは赤くなりながら俯いた。
「私…ただ必死で…」
アオイはサナを見下ろすと真顔になった。
女たちが気を利かせて部屋を出ると、新緑色の瞳を見たまま小さくため息をこぼした。
「サナ、僕は関所が解放されたらすぐに第四地域からきみを外に出すように中央区の男に頼んでおいたんだ。君は…、ろくに動けないくらい体が重かったはずだ」
サナは負けないくらい真剣にアオイを見上げた。
「…やっぱり、あの時私に何か飲ませたの?」
しばらく見つめあっていたが、負けたのはアオイの方だった。
「…サナは、僕が広場に戻ったら、絶対ついて来ると思ったからね。頭も体もしばらくの間重くなる薬を含ませといたんだけど、まさかそう動くとは思わなかった…」
「勝手なことして、ごめんなさい…」
アオイはサナの額にかかる前髪を横に流すと苦笑した。
「謝らないでよ。サナに護られてばかりで、少し悔しいだけ。
無理に体をうごかして辛かっただろうに…」
サナはアオイの傷に触らないように気を付けながら、その逞しい体に腕を回した。
「守るよ…。愛してる人くらい、私だって守りたいよ」
言いながら、声が震える。
長い間封じていた言葉は、口にするだけで絞るような勇気がいった。
しばらく待っても、アオイは何も言わなかった。
サナが不安そうに顔を上げると、アオイの手がサナの視界を防いだ。
「あ、アカツキ?」
目隠しをされたサナはそのまま前を向かされると背中から抱きしめられる。
「サナ。まだ、だめ」
「え…?」
耳元で囁く声はなんだかいつもと違う気がする。
「それは、シェルターに帰ってからにして。知ってると思うけど、僕はなんでもしたいと思ったことには割と我慢が効かないタイプなんだ」
「…?」
抽象的な言い方に首を傾げたが、アオイの手がするりとサナの服の裾から滑り込むと途端に理解した。
「アカツキ!!!」
真っ赤になって怒るサナを笑いながら離すと、アオイは改めてサナを上から下まで見た。
「大きくなったねサナ」
「当たり前だよ!!もう子どもじゃないんだから!!」
「綺麗だよ」
「き…」
ボロボロに薄汚れている自分を見て、サナは眉を寄せた。
それでもアオイは真っ直ぐにサナを見つめる。
「君は強くて聡明で、それでいて誰よりも優しい。僕の為に背負った、その十字架ですら愛しいよ」
「あ…アカツキ…」
「今まで僕の為に我慢ばかりさせてごめん。もう、僕だけのものにしてもいいかな」
あまりにもストレートな物言いに、サナは困惑の極みに達した。
「アカツキ」
小さな手でアオイの口元を覆うと、真っ赤な顔をしながら柔和な瞳を精一杯つりあげた。
「帰ってから、でしょう?」
間近で視線をしばらく絡めた後、二人は揃って少しだけ笑った。
触れる手が違う。
愛を囁く声音が違う。
今までと何も変わらないようで、何もかもが全く違う。
遠回りした二人の思いは、微笑みあったこの瞬間に始めてぴたりと重なっていた。