第6話 精霊の樹
『精霊の樹』は、静かにそこに立っていた。
不思議と風がやんで、あたりは奇妙な静けさに包まれる。
「では、始めますかな。準備はよろしいか?」
長老ファーロンは、厳かに言った。
ソフィアはうなずき、やや緊張した面持ちで彼に従った。言われるままに『精霊の樹』の根元にしゃがみこみ、その幹にそっと額を押しあてる。
以前と同様、『精霊の樹』にふれたとたん、ソフィアの体は一瞬、びくんとふるえた。
その様子を、アレクは少し離れたところから黙って見守っていた。さらにその後ろには、約束通り、ボロワースも一緒にいる。
しばらくすると、ソフィアが何かぶつぶつとつぶやき始めた。
長老ファーロンもボロワースも、「おや」という顔をする。アレクは振り返ってボロワースを見た。
「どうしたの? 何かあった?」
「これは……」
長老ファーロンは険しい表情で、ソフィアを見つめている。
「ボロワース! これはどういうこと?」
アレクがきつい口調で言うと、ボロワースも眉をひそめたまま、ソフィアから視線を外さずに言った。
「いつもはこんなことはないんです。彼女がしゃべっているのは、精霊の言葉のようにも聞こえますが……」
「ソフィアは、大丈夫なんだろうね?」
「わかりません……いや、大丈夫なはずです。『精霊の樹』がエルフを傷つけるはずがありませんから」
ソフィアはまるで歌うように、抑揚をつけながら何かをつぶやき続けていた。
そこで、アレクはハッと『精霊の樹』の根元を見た。枯れてしまった小さな『精霊の樹』――。
その枯れたはずの小さな『精霊の樹』から、枯葉がはらはらと落ちていく。そして、そこから新しい新芽が次々に出て、黄緑色のきれいな葉を広げた。
「ファーロン!」
アレクは思わず叫んだ。
「お……おお! これは……!」
長老ファーロンは杖を放りだし、声をあげて小さな『精霊の樹』に歩み寄った。
ボロワースも目を見張った。
「まさか……」
枯れたと思われていた小さな『精霊の樹』は、まるで時を早送りでもしているかのように、三人が見守る中、成長を続けた。
どんどん葉を増やして広げると、今度はとうとうその背を伸ばし始めた。
放っておいたらそのまま歩きだすのではないかと思われるほどの勢いで、その幹をねじりながらぐんぐん成長し、それはついに、アレクの背丈を越えるほどにまで大きくなった。
「こんなことが……」
長老ファーロンは、その成長した『精霊の樹』の根元にうつぶせて、嗚咽していた。
やがて成長することをやめたと気づいたとき、ソフィアのつぶやきもまた、止まっていた。
(まさか、ソフィアがこの『精霊の樹』を救うなんて――)
なぜだか不思議と、アレクの顔に笑みがこぼれた。
呟くことをやめたソフィアは、そっと頭をおこした。そして、『精霊の樹』を見上げ、小さな声で言った。
「ありがとう。わたしのことを心配してくれて。きっと、たぶん、大丈夫だから……」
それは『精霊の樹』に向けられた言葉だった。ソフィアは『精霊の樹』と、一体どんな話をしたのだろうか?
「『精霊の樹』は、何か言っていたの?」
アレクはソフィアの背中に声をかけた。すると、ソフィアはおどろくほど優しい微笑みをたたえて、ふり返った。
「わたしがここにきて、うれしいって。わたしは血族最後の生き残りだけれど、『精霊の樹』はいつも共にあるから、悲しまないでほしいって」
「『精霊の樹』が、そんなことを言うなんて……」
ボロワースがつぶやいた。
「この樹のことは? この樹のことは、何と言っておりましたか?」
長老ファーロンが息せききったように、ソフィアに尋ねた。
「わたしの力を貸してほしいと……。わたしならこの子が救えると言われたので、彼女が言うとおりにしました」
「彼女?」
「『精霊の樹』は、とてもきれいな女性でした。彼女はこの子が小さいまま、枯れてゆくのをとても悲しんでいたのです。でも、この村のエルフにはそれを救う力がないって……。それは仕方のないことだとも言っていました」
彼女は気遣うような哀しげな表情で、長老ファーロンの顔を見ていた。
「なぜ……。なぜ、わしらにはこの樹を育てられないのか……」
「それはわたしにも分かりません……。でも、これでつらい時期を乗り越えられたと言っていました。ここまで大きくなれば、よほどのことがない限り、もう枯れることはないそうです」
「そうか……」
長老ファーロンは力の抜けた人形のように、その場に座り込んでいた。
真実は分からないが、その理由を推測することはできる。
"いにしえのエルフ"たちは強い魔力を持つ者たちだった。彼らがいたおかげで、『精霊の樹』はその"つらい時期"とやらを乗り越えてきたのかもしれない。
"いにしえのエルフ"がいなくなって、もう千年ほどになる。その間に新しく『精霊の樹』が育たなくなったとすれば、つじつまは合う。
(その推測を長老ファーロンに告げることは、今はしないでおこう)
アレクは秘かに思った。
もし本当にそうなら、これから育つ『精霊の樹』は、彼女の力なしには育つことが不可能だからだ。
「感謝いたします、アレク様。そして、いにしえの血を引く、おじょうさん。この困難からお救いくださったことを――、我々はこの恩を忘れません。我々はいつでも、あなたがたの力になります」
涙ながらに長老ファーロンは感謝の言葉を述べたが、アレクは複雑な思いで肩をすくめただけだった。
彼らを救ったのは、アレクではない。ソフィアだ。アレクは彼女をここに連れてきただけ。
そして、かつて――遠い昔、アレクは全く同じことを、この地に導き、救った者たちから言われたものだ。
しかし、それはあまりに遠い日の出来事で、彼らはもう忘れてしまっているだけなのだ。
アレクとソフィアは、ボロワースの家でしばらく寝泊まりすることになった。
ボロワースとエンシルの両親は、遠くに働きに出ていて、しばらく家には帰ってこないという。
長老ファーロンは、空いている家をいくらでも使っていいと言ってくれたが、そもそも空いている家はどれも手入れしなければ、すぐには住めない状態だった。それをやっているほど、この村に長居する気もない。
それに何よりソフィアは、ボロワースの妹エンシルといると、とても楽しそうだった。
ソフィアは毎日、エンシルと共に精霊魔術を学びに出かけた。
村では、精霊魔術に長けた者が、まだ幼いエルフたちを集め、その扱い方を教えていた。
その間、アレクはひまになってしまったので、ボロワースと一緒に狩りに出かけたり、他の若いエルフたちを紹介してもらって、交流を深めたりした。
一週間は、あっという間にすぎた。
「なかなか、優秀な生徒だったようですよ。教えていた年長者たちがおどろいていました」
ボロワースのほめ言葉に、ソフィアは首を横にふる。
「決められた日までに、早く覚えなきゃいけないと思って。一生懸命だっただけです」
「じゃあ、行こうか」
アレク達はこのエルフの村に来た時と同じ場所、同じ木の前に立っていた。
このあと、ベルンと落ち合う約束がある。彼にはもう『使い』を送ってあった。
アレクはソフィアに声をかけたが、エンシルが横からソフィアに抱きついた。
「さびしくなるわ。せっかく仲良くなれたのに。わたし、ソフィアとだったら、精霊魔術も一緒に楽しく学べると思うのに」
エンシルはそう言いながら、なぜかアレクをにらみつけていた。
(まるで悪者あつかいだな。ぼくが一体なにをしたっていうんだ?)
理不尽な思いでいっぱいだったが、アレクは何も言わずに黙っていた。何か言おうものなら、口達者なエンシルは、それを十倍にして返してくるに違いないと思ったからだ。
「わたしも……、わたしもあなたと一緒にいると、まるで妹ができたみたいで、とても楽しかったわ」
ソフィアに抱きついて、離れそうもないエンシルを、ボロワースが無理やり引きはがした。
「アレク様には、大事なお役目がある。そして、多分――、ソフィアさんにもね。名残惜しいけど、僕たちは引き留めてはいけない」
いつもは笑顔いっぱいのエンシルが、涙を流していた。
「待ってるわ。近くに来たら、いつでも遠慮せずに遊びに来てね? お役目が終わったら、一緒にここで暮らしましょう? ずっと待っているから。――そんなお願いも、してはいけない?」
ソフィアも目に涙をためながら、首を横にふった。
「いつになるかは分らないけど、またきっと会いに来るって約束するわ、エンシル。ありがとう。わたしにもうひとつ、故郷ができたみたい」
「ここはソフィアの故郷よ! だって、ソフィアはエルフなんだもの!」
二人は再び抱き合ったが、今度は名残惜しそうに離れた。エンシルは涙を流しながらも、大人びた微笑みを浮かべている。
「元気でね」
「あなたもね」
二人はかたくあく手をかわした。
アレクは頃合いだと思い、目前の木に魔法をかける。
白い空間が、木の幹に広がった。
「さあ、行こう」
アレクはソフィアの手をとり、再び白い空間の中に足を踏み入れた。
「元気でねー! また、きっと、遊びに来てねー!」
背後でエンシルの叫ぶ声が聞こえたが、それはやがて白い世界に溶けて消えていった。
二人がその空間から出たとき、そこはまだ森の中だった。
しかし、先ほどの森とは違って、深い霧が立ち込めていて、足元は露でしっとりと湿っている。
「ここは……」
ソフィアは、周囲をぐるっと見回した。
「ここには図書館があるんだ。少し歩かなきゃいけないけどね。ほら、あそこに見えるんだけど……、分かるかな?」
アレクは木々の切れ間にうっすらと見えるレンガ造りの建物を指さした。
「何か建っているのはわかります、けど……」
二人は湿った森を抜け、その建物のすぐそばまでやってきた。
図書館の外壁にはツタがびっしり生えていて、その半分ぐらいが見えないほどになっていた。
図書館はとても縦長い建物で、下から見上げただけでは、その建物の先まで見えない。
湿った草のにおいが、アレクの鼻をついた。
「ああ、いたいた。おーい、ベルン!」
図書館の入口付近で、ベルンは待っていた。
その手には、小さなオレンジ色の丸いものがにぎられている。
「アレク様! これは一体、何なのです?」
ベルンは開口一番そう言って、手に持っていたオレンジ色の丸いものを、アレクの前につき出した。
オレンジ色の丸いものは、勢いあまって、ベルンの手の中でプヨプヨと揺れている。
「『使い』だけど? こっちの用がすんだら、『使い』をやるっていっただろう?」
なかなかの自信作だ。
『使い』の背中には小さな羽根がついていて、それで空中を飛ぶことができる。
緑色のくちばしのようなもの、そして、とても小さな目がふたつ。目は少々離れ気味につけてある。
頭には小さな緑色の芽も生やしていた。
とてもざっくりした、鳥のような形。
ふーっとベルンは、あきれたようにため息をついた。
「それは分かっております。ですが、何故こんな形なのです? しかも、この派手なオレンジ色。一体、何が飛んできたのかと、危うく叩き落とすところでしたよ」
アレクはその丸い『使い』をベルンから受け取った。
「失礼だな。エルフの村にはきれいな鳥がいっぱいいたから、今回は鳥の形にしてみたのに」
『使い』に決まった形はない。そこらにある植物や無機物に魔法をかけて、まるで生き物のように使役する物だからだ。魔族などは『使い魔』を操るが、古代魔術では『使い』と呼んで、これらを使役する。
「では、なぜこのようなオレンジ色なのです?」
「目立つから」
「では、緑色のくちばしで、頭から芽がでているのは、どうしてなのですか?」
なぜいちいちそんなことまで、ベルンは聞くのだろうか?
「葉っぱがベースになっているからだよ。その名残をとどめておくのに、芽を生やしてみたんだ」
がっくりと肩を落とす、ベルン。彼にはアレクの芸術的なセンスが分からないのだ。
「あのう……」
ソフィアが遠慮げに声をあげる。
「なに? ――ねえ、ソフィアはこれ、どう思う? よくできてるでしょ?」
自信満々にアレクは、ソフィアの前にその『使い』を掲げて見せた。
「はい! とてもかわいいと思います。あの……抱かせてもらってもいいですか?」
ソフィアは大事そうに、その丸い『使い』をアレクから受け取った。
「やわらかい……。それに温かいんですね」
ソフィアがうっとりと『使い』を抱きしめて言った。アレクは胸を張って応える。
「鳥を再現しているからね。細部までこだわらないと! 本当は生き物じゃないけど、その辺はぼくのこだわりってヤツだね」
「いや……鳥を再現するなら、もうちょっと……」
ベルンはぼそぼそと言いかけたが、アレクはそれを無視した。
「しばらく、わたしが持っていてもかまいませんか?」
「別にいいよ。どうせこの『使い』の用は終わったし」
嬉しくてたまらないというように、ソフィアは『使い』にほおを寄せて、その頭をなでた。
『使い』も気持ちよさそうに、その小さな目を閉じて、クルクルと鳩のような鳴き声をあげている。
「もうよろしいでしょうか? そろそろ中に入りませんか? 私は先ほどからずっと、ここで待っておりましたので」
とうとうしびれを切らして、ベルンが言った。
「そうだね。入ろうか。ここに来るのも、久しぶりだな……」
アレクは入口の壁にある紋章に手をあてた。アレクの赤い指輪が光る。
一見すると何もない壁だったが、そこにすっと扉が現れ、ガラガラと音を立てて開いた。
「さあ、ソフィア。行くよ。ぼくの大図書館にようこそ」
本特有のにおいが、三人を包む。
霧が濃く、外からはよく見えないが、中は天井が見えないほど高い。
壁一面を覆うように、数え切れないほどの本がずらりと並んでいる。それが、ずっと上の方まで続いていた。
「すごい、本の数ですね……」
ソフィアは、口をあけたまま上の方まで目をこらしていた。しかし、見えるはずがない。
天井の上の方は、高すぎて暗く陰っているのだから。
建物の中央には大きな柱のようになったところがある。その壁にも本がびっしりと並べられているが、その中には、らせん状になった階段が据え付けられていた。
「ソフィア、こっちに見せたいものがある」
アレクはソフィアをらせん階段の方に導いた。ベルンもその後を黙ってついてくる。
らせん階段の入り口は見えにくくなっていたが、中は人が三人横並びになれるほど広い。
入口まで来ると、アレクは短い呪文を唱えて、その内側の壁にそっとふれた。すると、ふれた場所からまるで波が起きるように、壁が青白い光を放ち始める。
光はどんどん上の方まで伝播していき、階段を淡く照らした。
「わあ……! きれいですね……!」
ソフィアは目を輝かせて、その様子を見守っていた。
「なかなか良い演出でしょ?」
おどけて見せながら、アレクは笑った。
「この図書館は、本当にアレク様の図書館なのですか?」
「どうかな? なんてね。今からそれを話そうと思ってる。ソフィア、ここをよく見て」
アレクが手で指し示したのは、光を放っている壁。そこには、乳白色のレリーフが施されていた。
「これ……」
階段わきのレリーフに、ソフィアはゆっくりと近づいた。
レリーフは青白い光で照らされ、陰影をくっきりと浮き上がらせている。
「これは、神話か何かですか?」
「そう。この国の始まりの物語だよ」