第4話 隠された集落
ソフィアは身支度を整えると、見違えるほどきれいになった。
きれいに髪と体を洗ったおかげで、肌は本来の透けるような肌色を取り戻し、淡い金色の髪は流れるように彼女の肩からこぼれていた。
服はやや大きめでぶかぶかだったが、簡素な服装が、かえって女の子らしさを引き立てている。
「これからはもうちょっと、しっかり食べる物も食べないとね。あんたはちょっとやせすぎだよ。女の子はふっくらしているぐらいが、ちょうどいいのだからね」
モリーは彼女の背中を軽く叩いて言った。ソフィアも素直にうなずいている。
それでも、店で一日しっかり食事をしたおかげで、ソフィアの顔色は以前に比べると、とても血色がいい。唇はピンクに、ほおは薄桃色に輝いていた。
アレクはあらためて、ソフィアをじっと観察した。
「あの……?」
戸惑った顔で、ソフィアがアレクを見る。
「ソフィア」
「は、はいっ。なんでしょうか?」
ベルンとモリーが、興味深げにその様子を見守っていた。
アレクは近づいてみたり、ちょっと離れてみたりしながら、ソフィアを上から下まで眺め、ひとつうなずき、そして最後には彼女の顔をのぞきこんだ。
「うん。ソフィア。かわいい」
「え?」
きょとんとするソフィア。しかし、その言葉の意味が頭に染みわたると、にっこりと笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます、アレク様」
モリーはそれを見て、あっはっはと口を開けて笑い、ベルンは拍子抜けしたような顔で、口の端をゆがめた。
「これ以上ないくらいに、ストレートなお言葉ですな」
ベルンの言葉に、アレクは真顔で応える。
「ぼくは本当に良いと思ったものしか、ほめない。思ったままを言っただけだよ」
「はあ……」
ベルンは間の抜けた声を出したが、モリーは、うんうんとうなずき、「大事なことだよ」と言ってまた大きな声で笑った。
ガンドルー専門料理店の従業員たちはみんな親切で、料理もすこぶるおいしかったが、いつまでも留まるわけにはいかない。
アレク、ベルン、ソフィアの三人は身支度が整うと、トラムやモリーをはじめ、店の従業員たちにお礼を言って別れを告げた。
モリーは何度も繰り返し、「またいつでも、おいでよ」と言ってばかりいたので、それを見た者たちみんなが苦笑いした。
こうして三人は、にぎやかなバンダルの町をあとにしたのだった。
「どこに向かっているのか、聞いてもいいですか?」
意を決したように、ソフィアがアレクに問いかけた。
ずっともじもじしていたが、どうやら、ソフィアはずっとそれを聞きたかったらしい。
馬車は三人を乗せて、けたたましい音を立てながら街道を進んでいた。今度は乗合馬車ではなく、四人乗りの馬車を借り切った。
「ああ、ごめん。ソフィアにはまだ、言ってなかったかな? これから、ぼくの知り合いのところに行こうと思っているんだ。きみに見せたいものもあるし。彼らは君の力になってくれるよ」
アレクはソフィアに微笑みかけた。
「言葉ではちょっと説明しにくいんだけどね。会ってみればわかるよ」
馬車はしばらく調子良く走っていたが、緑の木々が林立する場所にさしかかると、だんだんとスピードを落とした。
アレクは御者に声をかけ、ほどよく茂った林の近くで馬車を降りた。御者にお金を払うと、馬車は三人を置いてすぐに行ってしまった。
「ここ……なのですか?」
ソフィアは首をかしげる。
そこはただの森だった。馬車が走ってきた道はまだ、隣の町へと続いているが、森の中へ続く道はない。もちろん、森の中に町があるような気配もない。
「ちょっと足場が悪いけど、ついてきて」
アレクが先頭に立ち、そのあとにソフィア、そしてベルンが続く。三人は草をかき分けながら、森の中に分け入った。
鳥のさえずりがどこかから聞こえてくる。あたりには幹が細く、背ばかりが高い木が、何本も生えていた。
アレクはあちこち見渡したが、目的のものが見当たらない。
「困ったな……。適当なものがない」
ぶつぶつ言いながら、それでも視線をめぐらせる。
「ちょっと聞いてみるか」
そう言うと、アレクは懐から大きめの指輪をひとつ取り出した。指輪には、大ぶりの赤い宝石がついている。それを指にはめると、指輪についている赤い石がキラリと光った。
指輪をつけたほうの手で、アレクは目の前にそびえたっている木にふれる。
「あ……」
ソフィアが小さくおどろきの声をあげた。
アレクがさわっている場所、木の幹の一部だけが、ぼうっと白く光っている。
「――ちょっと、遠いな」
ぼそっとアレクは独り言をつぶやいて、目を開ける。アレクが手を離すと、光っていた場所はもとの幹に戻った。
「ごめん、ソフィア。思っていたより、ちょっと遠いみたい。少し歩いてもらわなきゃならないけど、大丈夫かな?」
アレクが振り返って問うと、ソフィアは首をかしげた。
「この森の中を、ですか?」
「そう。もう少し東の方――、奥に向かって歩く」
「わかりました。山は歩き慣れていますから、大丈夫です」
もともと旅支度として、モリーが歩きやすい格好になるよう用意してくれている。
「そうだな。歩きながら、ソフィアのことでも聞こうかな」
さっきは林の中にばかり目をこらしていたアレクだったが、今度は目的地がはっきりしたので、その必要もない。進むべき方が砕け間違わなければ、目的の場所にたどり着ける。
三人は草を払いながら、軽快に歩き始めた。
「はい。答えられることなら」
ソフィアもアレクの後に、遅れまいと続く。
「ソフィアはどこで生まれたの? ソフィアを育てた人はどんな人?」
アレクは振り向かず、目の前の枝を払いながら言った。
「生まれたのは……どこか、分かりません。わたしは小さい頃に養父に引き取られたのです。わたしが育ったのは、フェレンマールという小さな村です。水のきれいなところでした」
「引き取られた時のことは覚えている?」
「なんとなく。多分、三歳か、四歳ぐらいだったと思います。それより前のことは覚えていないのですが、家の前で会った養父が、とても優しそうな人でよかったと、そう思ったような記憶だけがあります。本当にその通りの人でしたけど」
「その養父っていう人は、もしかして……」
「はい。私があの男と契約した後に、亡くなりました。あの男に会って、ようやくお金が手に入ることになって、それで薬を買ったんですけど――。間に合いませんでした」
「そうか。それは、残念だったね」
「――はい」
それから、しばらく三人は黙々と歩いた。次第に森は、どんどん深くなっていく。
地面は草で覆われ、鳥や虫の鳴き声が、どこかから絶えず聞こえてくる。三人は、わき水が流れている苔の生えた岩場の横を通り過ぎた。
そこでアレクは思いついたように、ソフィアに声をかけた。
「ソフィアは、たとえば、小さい頃に成長が遅いとか、そういうことを言われたこと、ある?」
「成長ですか? 身長とか、そういうことですか?」
「そうそう。年のわりに背が低いとか、体が小さいとかさ」
「特には……、ないと思います。村にはもともと子どもが少なかったですけど。どうしてそんなことを?」
「ん? ああ、モリーがやせすぎだって言っていたから。そういえば、ソフィアっていくつなの?」
「十六です」
ソフィアがそう答えたとき、アレクは足をとめた。
「これだな」
そう言って、一本の大きな木を見上げた。
「立派な木ですね。これなら十分いけそうですね」
それまで黙っていたベルンが、後ろから言った。ソフィアはなんのことかさっぱり分からず、黙ってその様子を見ている。
アレクはさっきと同じように、指輪をはめた方の手のひらで、その大きな木にふれた。またぼうっと木の幹が光る。
「きれい」
ソフィアが小さくつぶやいた。
「うん、大丈夫。これならいけそうだ」
アレクはそのまま、光った木の幹の上に手のひらをすべらせ、呪文を唱えながら、ゆっくりと円を描いた。
すると、木の幹全体にその光が稲妻のように走りぬけた。
ソフィアはおどろいて、あとずさった。そして、彼女は振り返ってベルンを見たが、ベルンはおどろきもせず、彼女を安心させるように、微笑んでうなずいていた。
アレクの詠唱は続いている。
「――大地に根をはる我らが友よ。ここにその友情の証を求める者がいる。遠き友の声を聞き、我が声を届けよ。開錠」
突然アレクの手元から白い光が広がった。すると、そこにあるべき幹はなくなり、木の幹の真ん中に人が通れるほどの空洞ができた。
「すごい……! これは魔法なのですか?」
ソフィアは感激して、空洞のできたところを興味深げに見た。
「ソフィア、早く。これ、そんなに長く開いているわけじゃないから」
「あ、はい!」
ソフィアは恐る恐る空洞の中に足を踏み入れた。
アレクがソフィアに手を差し出すと、ソフィアは物珍しそうにあたりをきょろきょろ見回しながら、その手をとった。
白く明るい空洞は、中に入ってしまうと、どちらが上で、どちらが地面なのかが分からなくなる。アレクは慣れているのでわかるのだが、初めてここを通る者には、ただ白い空間が延々と広がっているようにしか見えないだろう。
アレクは振り返らずに、ソフィアに言った。
「手をちゃんとつないでて。周りを見たりしないで、ぼくの後ろ姿だけ、見て歩くようにするんだ。感覚を失ったり、迷ったりすると、とても厄介なことになるからね」
「はい」
そんな二人の後を、ベルンも用心深くついてくる。
白い空間は長くはなかった。それほど歩かないうちに、蜃気楼のようにゆらめく、森の景色のようなものが見えてくる。
「見えてきた。もうすぐだよ」
それはだんだん近づき、そして不意にはっきりと、あざやかに広がる現実の景色となった。
ソフィアは声にならない声をあげ、そして、振り返った。
「おっとっと」
ソフィアの後ろからついてきていたベルンはおどろいて二の足を踏んだが、そのベルンの背後にはもう、あの白い空間はなく、大きな大木があるだけだった。
「ぼくたちが出てしまったから、もう閉じたんだ」
アレクはソフィアに、ついてくるよう、うながした。
そこは明るい森だった。
でも、さきほどの森とは明らかに雰囲気が違って、何より空気がひんやりとしていた。木漏れ日も優しい。
「さっきいた場所とは、違うところなのですか?」
足元に気をつけながら、ソフィアは聞いた。それでもさっきよりは格段に歩きやすい。そこには、さっきの森になかった道らしきものがあったからだ。
「そう。あの木がぼくたちを運んでくれた。さっき馬車を降りた場所から、ここまではとても……とても遠いんだ」
「わたし、魔法というものを初めて見ました。アレク様は、魔法が使えるのですね」
ソフィアは少し興奮したように言った。
しかし、魔法などはそんなに珍しいものではない。
この頃では近代魔法と呼ばれる、ごくごく簡易的に使えるような魔法がたくさん出回っているから。国によっては、魔法を学べる学校もある。
「そんなのは、たいしたことじゃない。ソフィアもそのうちわかるよ」
三人は細い森の小道をしばらく歩き、やがて木々の切れ間に明るい日差しが見えてきた。
「すごい……!きれいなところ……」
ソフィアは、その光景にうっとりと見とれた。
森をぬけると、そこには緑のなだらかな傾斜が続いていた。
緑のじゅうたんを敷き詰めたような傾斜の先には、まるで積み木を積みあげて作ったような、色鮮やかできれいな家がぽつりぽつりと建っている。
その先には、森を映した穏やかな湖面が広がっていた。
アレクも、目を細めてその光景にしばらく見入った。
「ここは、変わらないな」
よく目をこらして見ると、住人らしき姿が見える。彼らはおどろいたようすで、こちらを見ていた。
しばらく何も言わなかったベルンが、口を開いた。
「アレク様」
「なんだい? ベルン」
「せっかくここまで来ましたので、私はここでの用事がすむまで、古い友人に会ってこようと思うのですが、よろしいでしょうか」
アレクはベルンをふりかえった。
「――そうだね。それがいいかもしれないな。わかった。じゃあ、こっちでの用事がすんだら『使い』をやろう」
「はい。では、そのようにお願いいたします」
その様子を見ていたソフィアが首をかしげた。
「ベルン様は、一緒においでにならないのですか?」
「ここは安全な場所です。それに、このあたりのことはアレク様の方が詳しいぐらいですからね。しばらく故郷にも顔を出していないので、顔見せに行ってきます。私の故郷は、ここからはそう遠くないところにあるのですよ」
「そうなのですか」
ソフィアは何とも言えない顔をしたが、ベルンは森の道に沿って、別方向へと歩きだして行ってしまった。
アレクは少しおどけた様子で、ソフィアの顔をのぞきこんだ。
「ベルンがいないと、不安?」
「え? いいえ、そういうことでは……」
「うそだね。ソフィアはうそが下手だなあ。もうちょっと、うその練習をした方がいいかも」
「そんな……」
「冗談だよ。――ベルンはいない方がいいんだ。このあたりの集落にはそれぞれ、しきたりとか、風習とか、そういうややこしいことがあるからね」
「そうなのですか……」
二人がしゃべっている間に、集落の方から人がやってくるのが見えた。
その容姿を見て、ソフィアは目を見開く。
すらりと背の高い男性のようだったが、その耳は人間の者よりも長く、とがっていた。
「まさか……。エルフ?」
ソフィアはおどろきのあまり、食い入るようにその男性を見つめていた。
人間の世界ではもう数千年も前に、姿さえ見ることのなくなったエルフたち。もはや伝説の存在となった一族。
だが、彼らは滅びたのではない。人間たちから姿を隠しているだけなのだ。
「うそみたい……」
おどろくソフィアの横顔を、アレクはじっと見つめていた。