第7話 男の子と緑の果実 ‐ソフィアの小さな奮闘記‐
木製のドアが、背後で小さな音を立ててパタンとしまった。
ソフィアと黒猫テイルは、そっと目配せをしあう。
(不自然だと思われなかったかしら――?)
不安な思いが頭をよぎったけれど、それを打ち消すように、ソフィアはフルーツが三つ入った麻袋を抱えなおした。
自然な感じにと思えば思うほど、どうすれば自然になるのかが分からなくなったが、それでもなるべく落ち着いた足取りを心がけて、ソフィアはテイルとともに宿屋を出た。
「うまくごまかせたかしら?」
ソフィアは思わずテイルに話しかけてしまった。
しかし、街道にはたくさんの人が行きかっているのを思い出し、ハッとする。
テイルは首を少しかしげて、ソフィアを見上げている。それは「大丈夫だよ」と笑っている――ように見えた。
始まりは、船が港町ポルト・デムに到着した日のことだった。
街道をアレク、ベルンたちと一緒に歩いていると、激しい怒鳴り声が突然とんできた。
ソフィアは自分が怒鳴られたのかとおどろいたけれど、それは彼女に向けられたものではなく、その後ろで倒れこんでいる男の子――七歳かそこらの、小さな男の子に向けられたものだと、すぐに気づいた。
男の子が怒鳴った相手、果物屋の店主をにらんでいたからだ。
「またお前か! どういう了見で、うちの果物ばっかり狙いやがる!?」
通り過ぎる人たちは興味津々で、その様子を遠巻きに眺めている。
「母ちゃんが病気なんだ。だから、果物を食べさせてやるんだ」
「そりゃあ、親孝行なこった。だがなあ、うちだってお前みたいな不幸面したガキに、いちいち商品を恵んでやってたら、生活が成り立たなくなるんだよ! 物が欲しけりゃ、ちゃんと金を払いな! それがこの世のルールってもんだ!」
「それができるなら、やってら!」
「さあ、その手に持っているやつを今すぐ返すんだ」
男の子は心底悔しそうな顔で、その果物を店主に投げつけた。
思わず男の子に声をかけようとしたソフィアを、アレクとベルンが引きとめた。二人の目が「やめろ」と言っていた。
「母ちゃんが死んだら、お前のせいだからな!」
男の子はそう捨てゼリフを残して、走って行ってしまった。
「全く、やってられねえぜ。おれが悪者みたいじゃねえか。――さあさあ、見世物は終わりだよ!」
店主はぶつぶつ言いながら、店に引っ込んでいく。
「どうして――。あの子、お母さんが病気だって……」
ソフィアは思わず、二人に言った。しかし、アレクは首を横にふる。
「気まぐれに手助けをしたって、ぼくたちはあの子のそばにずっといてやれるわけじゃない。それに、あの店の主が言っていることは、正しいよ」
ベルンも黙ってうなずいていた。
理屈はソフィアにもわかる。アレクが冷たいわけじゃない。多分、これが当たり前なのだ。
それでも、ソフィアは思い出さずにはいられなかった。養父が病の床についた時のことを。
大切な人を守りたかった。ソフィアの居場所はそこにしかなかったから。村の人たちは良くしてくれたけれど、養父に代わる人などいなかった。
日に日に病状が悪くなって、ソフィアは半ばパニックになっていた。弱っていく青白い顔の養父。「なんとかしてあげなくちゃ」とずっと思い続けながら、それでも彼女は無力だった。お金もない。助けを求めるあてもない。
心細く、不安だった日々。
そんな時に現れた奴隷商のドミニクは、希望の光に見えた。これで高い薬が買える。いい薬があれば、養父の病気も治る。
――彼女はおろかにも、そう信じた。
「わかったよ、ソフィア!」
テイルは町にいる猫に、あの男の子の居場所を聞いてきてくれた。
どうやってあの男の子を探し出そうかと思っていたソフィアだったが、それは意外にも簡単に、テイルが解決してくれたのだった。
「ありがとう、テイル。ねえ、猫同士って、どこの町の猫でも仲良しになれるのかしら?」
「ん? どういうこと?」
首をかしげるテイルは、とても可愛い。ソフィアは船旅を数日間、テイルと共にした今でも、その愛らしい姿にうっとりする。
「男の子の居場所、教えてくれたんでしょう? それはつまり、テイルに協力してくれたってことよね?」
「ああ、おいらはふつうの猫とは違うから。猫の世界は人間と違って、シンプルなんだ。おいらはまだ大人じゃないけど、それでも、ふつうの猫とは比べ物にならない"力"を持っているからさ。おいらが命令すれば、みんな言うことを聞くんだ」
テイルは胸を張って言った。
しかし、猫同士が仲良しになって、協力してくれたのでは……と、幻想を抱いていたソフィアは、少しがっかりした。
「そうなの……」
「それより、ソフィア。早く行こうよ。遅くなるとアレクが心配するよ」
「そうね、行きましょう」
男の子の家は、町の山の手の方にあった。
傾斜はそれほどきつくない坂道だったが、港からずっと先までその斜面が続いている。
家々の庭には、どこも同じ木が植えられていた。ひょろりと細い幹をしていて、薄緑色の細長い葉をつけた木。その木の多くは、緑色の丸い小さな実をつけている。
「どの家も、同じ木ばっかり植えてるなあ」
テイルがぼそっとつぶやいた。
「そうね。何の木なのかしら?」
あとでアレクに聞いてみよう、とソフィアは思った。アレクは物知りだから、知っているかもしれない。
「あそこだよ」
テイルが声をひそめて言った。
確かに、庭先に見覚えのある男の子がしゃがんで、何かしている。
ソフィアは一瞬声をかけてもいいものかと迷ったが、ここまでテイルに協力してもらって、帰るわけにはいかない。そう心を決めて、思いきって男の子に声をかけた。
「あの……、こんにちは」
なるべく優しい笑顔を作ってみるが、うまくできているかどうか、ソフィアには自信がない。
男の子は顔だけあげて、ソフィアとその手に持っている麻袋、そしてテイルをじろじろと見た。
「あなた、昨日、市場にいたでしょう? わたし、見ていたんだけど――」
ソフィアが最後まで言い終わる前に、男の子はすっくと立ち上がり、彼女をにらんだ。
「なに? ぼくを捕まえにきたの?」
「ち、違うわ。これ……、良かったら、お母さんにあげて」
そう言って、ソフィアは麻袋を差し出す。
男の子はソフィアと麻袋を交互に見て、そして、彼女から奪い取るようにその麻袋を受け取った。
「これ……」
袋の中をのぞきこんで、男の子の目は目を見張る。
それは今日、彼が盗もうとして、失敗した果実。
「なんで? なんで、くれるの?」
男の子は疑い深そうに、ソフィアを見た。
「わたしも、病気のお父さんがいたから……。今日はこれぐらいしか持って来れないけれど」
「ふうん。――もらっとくよ」
男の子はそう言って、ふいっと家の中に入ってしまった。
「なんだよ、アイツ。せっかく持ってきてやったのに」
周囲に誰もいないのを良いことに、テイルが文句を言った。
「仕方ないわ。わたしは彼にとって、不審者なのよ。見ず知らずの人間の親切だもの。警戒する気持ちもわかるわ」
「そうかなあ? 素直にお礼を言って受け取っておけばいいと思うけど」
テイルは不満気だったが、ソフィアはできることなら、また届けてあげたいと思った。
過去の自分が、あの男の子の後ろ姿と重なる。強がっていた自分。だけど、本当は不安で不安で仕方がなかった、あの頃の自分。
それはとても、孤独な後ろ姿だった。
「そろそろ、出発したいんだけど」
アレクのその一言に、ソフィアはぴくりと反応した。
当初の予定では、一日ゆっくり休み、買い出し等を済ませたら、アヴィナスの首都トレヴィナに出発する予定だったのだ。
それがもう、五日も滞在している。
「あと一日だけ、待ってもらえませんか?」
アレクがため息をつく。
「あまりわがままを言わないソフィアのことだからと思って付き合ってきたけど、あまり遅くなると射撃大会が始まっちゃうんだよね」
「ごめんなさい……」
いつまでもこの町にとどまって、あの男の子のところに果物を届け続けることなどできない。それはソフィアにもよく分かっていた。
しかし、それでもようやくあの男の子は心を開き始めてくれている。
お母さんの病気のこと、ソフィアと同じ年ぐらいのお姉さんのこと。庭にある木のこと。
庭にあるあの木は、この辺りでは有名な実のなる木なのだという。果実はそのままでは食べられないけれど、加工すれば、食用の油になる。町ではその実を高い値段で買い取っているから、実がなりさえすれば、ちょっとしたお金が手に入る。
しかし、男の子の家の木は、花は咲いているけれど、実がなっていなかった。
その木を植えてから、毎年花は咲くのに、実がならないのだという。
(わたしの力でなんとかしてあげられればいいのに)
ソフィアは切実にそう思ったが、それができる保証はなかったし、それを人前で試してみても良いものかどうか、迷っていた。
「あと一日だけだ。いいね? ソフィア。それ以上は待てない」
アレクはきっぱりとそう言った。ソフィアもうなずく。
その日もソフィアは数個の果物の入った袋を抱え、テイルと一緒に、あの男の子の家に向かった。
ベルンから果物をゆずってもらう口実も、近頃ではとても難しくなっている。けれど、それも今日までのことだ。
ようやく男の子と親しくなれたというのに。
いつもの道を早足で歩いていくと、男の子の家がいつものように、そこに建っていた。しかし、その家の前には男の子ではなく、知らない女の子が立っていた。
ちょうど、ソフィアと同じくらいの年頃の――。
「あなたね?」
女の子はだしぬけに、ソフィアのそう声をかけた。
厳しい女の子の顔つきに、ソフィアも少し身構える。あまり、いい雰囲気ではない。
「私は、トリニの姉よ。ルージャというの」
トリニというのは、あの男の子の名前だ。
「わたし……、ソフィアです。こっちは、テイル」
ソフィアが自己紹介すると、ルージャは肩をすくめた。
「弟から聞いたんだけど、あなた、このところ毎日、うちに果物を届けてくれるそうね?」
「え、ええ……。ちょっとでも、足しになればいいと思って、でもそれも――」
最後まで言い終わらないうちに、ルージャは厳しい口調で言った。
「どういうつもりなの?」
「――え?」
「タダほど、高い物はない、ってね。私だってそのくらい分かるわ。何をたくらんでいるの? ――まあ、それはいいわ。あなたの考えを聞いたって意味がない。だから、やめてほしいの。こういうこと」
ソフィアはうつむいた。
ルージャは、ソフィアが何かをたくらんでいると思っている。赤の他人が、何の理由もなしに、こんなに親切にするはずがない、と。それは確かに、当然の考えかもしれなかった。
「信じてもらえないかもしれないけど――」
「聞きたくないわ。あなたの話は聞かない。だから、帰って。もう、うんざりしてるのよ。母さんが病気になってから、この手の人が多くてね。うっかりだまされて痛い目にもあったわ。だから、あなたが本当に親切なのか、そうでないのかは関係ないの。私たちはあなたの助けは必要としていない。それだけよ。――帰ってちょうだい」
はっきりとした拒絶だった。足元で、テイルが「ニャー」と鳴いた。
「もう来ないわ。これで最後よ。明日にはここを発たなければならないから。だけど、これだけ受け取って」
ソフィアは手にしていた麻袋を差し出した。
しかし、ルージャはそっぽを向いた。受け取る気はないようだった。仕方なく、ソフィアはそれを地面に置き、ルージャに背を向けた。
彼女は悪くない、とソフィアは自分に言い聞かせる。
むしろ、彼女は正しいのだ。
ソフィアは、口のうまいドミニクにだまされて、自分と引き換えに高い薬を買ってしまった。彼女はそうならないように、警戒しているだけ。
トリニは少し頼りなかったけれど、あんなしっかりしたお姉さんがいるのなら、大丈夫だろう。
それでも――。そうと分かっていても、ソフィアの目からは涙があふれていた。
拒絶されたことが悔しかったのか、ルージャの存在に安心したのか。自分でもよく分からなかった。
テイルが心配そうに「ニャー」と鳴いた。ソフィアはテイルをそっと抱きあげ、そのぬくもりを抱きしめながら、宿への道を歩いて帰った。
涙がとまらなかった。
トリニの話によれば、お姉さんのルージャは、昼も夜も働いている。病気のお母さんに薬を買うために。
その日の夜、ソフィアはアレク達には内緒で、宿を抜け出した。
いつもは昼間に果物を届けに行くので、夜にトリニの家に行くのは、初めてだった。
真夜中だったので、テイルは起こさなかったのに、勝手にあとからついて来た。
早足で歩いてきたので、トリニの家に着くころには、息があがってしまった。
家の明かりは消えている。
ソフィアは周囲を確認し、それから庭にそっと足を踏み入れた。
心臓がドキドキする。
早足で歩いてきたせいではない。なんだか泥棒になったような、悪いことをしているような気がするからだ。
足音を忍ばせながら、ソフィアは庭の木のそばまでたどり着いた。
(わたしにできるかしら……)
ソフィアはその木を見つめた。
可愛らしい、小さな白い花がいくつも咲いている。この花が全て実になれば、トリニとルージャの生活は、少しは楽になるのに違いない。
ほっそりとした木の幹に、そっと手をあてた。
『精霊の樹』にふれた時のように、声は聞こえない。しかし、何か優しい音が聞こえたような気がした。
(お願い……、どうかお願い。わたしのお願いを聞いて。わたしの力をわけてあげるから、どうか、実を結んでください)
ソフィアは幹にあてた手の指先に集中した。指先が少し熱い。
ぽうっとふれているところが、淡く光ったような気がした。
「ニャッ……!」
テイルが小さく鳴いた。
ソフィアが枝に目をこらすと、花が次第に実へと変わりつつあった。
白い小さな花が落ち、緑の小さな果実が、次々と実りはじめたのだ。
(ちゃんと通じた――)
胸に温かいものが宿る。
「行こう。アレク達にバレないように、戻らなきゃ」
テイルの小さな声に、ソフィアは、はっとした。そしてうなずく。
二人は来た時と同じように、足音を忍ばせて、庭を出た。
そこに月の光に照らされた影が二つ。
「アレク様――!」
心臓が止まりそうになるほど、ソフィアはおどろいた。
アレクもベルンも、宿で寝ているはずなのに、どうして――?
「まったく。頑固で仕方がないんだから、ソフィアは。バレてないとでも、思ったの? 前に言っただろう? ソフィアはもうちょっと、ウソをつく練習をした方がいいって」
月の光に照らされて、アレクの銀色のきれいな髪がきらきらと光る。
アレクが言っている言葉とその表情は、まるっきり相反していた。
彼の表情はとても――、優しい。
「夜遊びは賛成できませんな。さあ、宿に帰りましょう。明日は早いですよ」
ベルンもまた、優しい顔で微笑んでいた。
(どうしてこの二人は、いつもこんな風に、わたしを許してくれるんだろう?)
そもそも、二人は今回のことに、いつから気づいていたのだろうか?
「ま、ベルンの"早い"っていうのは、ぼくたちの"早い時間"には、入らないけどね」
アレクがそう言って肩をすくめる。ベルンは朝に弱いのだ。
「ソフィア?」
「はい。――帰りましょう」
目元に浮かんだ涙を、ソフィアはこっそりぬぐった。あまり泣いていては、また泣き虫だと言われてしまう。
それでも、二人の優しさがうれしかった。
養父が亡くなったことは悲しかったし、ドミニクにだまされたことは悔しかった。それでも、そのおかげで、二人と出会えたことに、ソフィアは感謝していた。
もう一人で悩まなくてもいい。
アレクが怒ってくれる。ベルンが支えてくれる。テイルが助けてくれる。
そのどれもが、ソフィアにはとてもかけがえのない、大切なものになりつつあった。
歩きだしたソフィアの手を、アレクがそっとにぎる。
アレクの手のぬくもりが体全体に染みわたるような、そんな感覚がソフィアを包んだ。




