第五十話
先に目をそらしたのは、私の方だった。
「あの、もしも王様が神殿の封鎖を解いてくれたら、ウラヌス・ラーの王族復帰を神殿へ認めさせます。これは、私の独断なんですけど」
王様の顔は、見られなかった。
もしも嬉しそうな顔をしていたら、ほっとしていたら、私は立ち直れない。
そうだ。その気持ちが心の中のどろっとしたところを占めていたんだ。
頷かないで――。
喜ばないで――。
納得しないで――。
心の中で一生懸命思いながら、それでも王様の気持ちを確かめたくて言葉にしていた。
もしかしたら、否定してくれるんじゃないかって。
「――それは、そなたが考えたのか?」
王様の声が冷たく響いた。さっきまでの優しい声じゃなかった。
低い、男の人の声だった。
私は黙ってうなずく。
「ほかに、王様が納得するようなことが浮かばなかった。
神殿が王様にひどいことしたことも知ってる。だから、王様が怒るのは当たり前だと思ったの。だから――」
顔を上げたら、王様の燃えるような目が目の前にあった。
怒っている顔だった。
「そなたはそれでいいと、思ったのか?」
体の芯から怒っているような、ぞわりとする声だった。
睨まれるよりもずっとずっと怖い。そんなふうに思えた。
私は黙って首を縦に振る。
だってほかにどうしようもない。
そうじゃないって叫んだって、何も変わらない現実を知っているのだから。
「王様がウラヌス・ラーを好きなら、そうするべきだと思ったの。
そのためだったら、身代わりになっても構わなかった……」
泣かないって決めていたのに。
ダメだ。
どんどん涙腺が緩んでしまう。堪えようと思っても悲しいとか、切ないとか、そんな思いがないまぜになって、溢れだしそうになってしまう。
とうとう零れ落ちた涙を、慌てて手の甲でぬぐった。
「ごめ――、ヤダな、泣かないって決めたのに」
泣くなって言われた日。あの日から絶対に泣かないって決めていたのに。
私は、王様の前では涙もろくなってしまう。
「誰が、そのようなことを……」
王様が言いかけて、言葉を飲み込んだ。
「昔のことだ」
短くそう言った。
昔のこと? そんなわけない。だって、王様はいつだって大事にしていた。ラッカの思い出だって、ニミルダ草の香りだって。
ただ涙を流す私を見て、王様は痛ましいような顔をしていた。
「余と二人の時は、泣けばいい……」
慰めるような言い方なのに、否定はしてくれなかった。そのことがせつなくて、胸が痛かった。
王様の手が、私の肩を掴む。
「そなたは、神殿の企みを知っていたのか?
欺かれていたことを、知っていたのか?」
静かに聞かれた。
だけど、王様の顔が苦渋に満ちているような気がした。
今思えば、騙されていた。王様がいなかったら、神殿を頼るしかなかったんだから。
でも、きっとあの時知っていても知らなくても取る行動はきっと変わらなかった。
私は、王様を助けたかっただけだから。
王様が好きな人と結ばれてほしかっただけだから……
そのためなら、なんだってしようと思えただけ。
「……知ってる」
項垂れながら頷いた。
「王様を匿っていた――拉致ってたのがサイスさんだってこと。
それでいて、私に取引を持ちかけて、『神』になるように仕向けたこと。
それを、誰が望んだかも……」
さっき聞いて、ようやく全部繋がった。王様がなんであんなに怒っていたのかもやっとわかった。神殿がしたことを思えば、王様の気が済まないこともわかっている。
――だけど、今更真実を知ってもどうにもならないことも知っている。
「そなた、わかっていて、『神』になることを引き受けたのか!?」
掴まれた腕から、王様の怒りが流れ込んでくるような気がした。
「そうだよ。王様が大切なのがウラヌス・ラーなら、そうするしかないじゃない。
私だって、身代わりなんて嫌だったよ! だけど、二人が愛し合っているのなら、それで納得するしかない。それでも、構わないと思ったの」
吐き出すように叫んだ。
「だから、ウラヌス・ラーを解放してあげようと思ったの……」
堪えていた涙が、また零れ落ちた。
泣くもんかって、我慢していたのに。足が震えても、頑張って踏みとどまったのに。
言葉にしてしまうと、とめどなく気持ちが溢れて……。
王様の目が、目一杯見開かれた。私の顔を見ずに、唇を噛み締める。
「そうか――」
王様が短く呟いて、掴んでいた肩の腕を離した。
もう、王様と目を合わせることはなかった。
王様はすっと立ち上がると、イスハムさんを呼んだ。
「戴冠式は必要ない、そう神殿に伝えよ」
冷たい声で私に言った。
それは、もうウラヌス・カーリとしての言葉だった。
「神殿の封鎖は解除する。しかし、王宮はそれ以上の関与はせぬ」
「トゥヤよ、余からの餞だ」
王様がそういうと、イスハムさんが部屋に入ってきた。その後ろに、イコがいる。
「イコ!」
思わず声を上げると、イコが私に駆け寄ってきた。イコ自身、どうしてこんなところにいるのかわからないといった顔をしている。手には大きなかごを持っている。
「イコとモウモウは、そなたのものだ。持っていくがいい」
そういうと、かごの中のモウモウを見つめた。
モウモウはキッと小さな泣き声を上げると、くるくるとした黒目で辺りを見回してた。
王様はずっと、私の部屋を残してくれていた。
でも、とうとう引き払うことにしたんだ。もう、王様の後宮に必要のない私。
そして、必要のないイコとモウモウ。
王様はとうとう、私を切ったんだ。
こうなることは分かっていたのに。
そんな道を自分で選んだはずなのに。
王様の前で泣いても、もう慰めてもくれないじゃない。
何かを言いたいのに、伝えたい言葉はたくさんあるのに、言葉は一つも口から出てこなかった。何を口にすればこの気持ちが伝わるのか、ちっともわからなかった。
サイスさんが迎えに来た時、私はこらえきれずに泣き出していた。サイスさんにすがって、泣いていた。
わあと声を上げて、子どものように泣いていた。
どうして素直に、王様に伝えることができないんだろう。いやだ、行かないでって言えば、もう一度慰めてくれたんだろうか。
……違う。
きっともう無理だったんだ。
私が違う道を選んだから。
全部わかって選んだはずだったのに。
サイスさんが泣いている私を抱えるようにして、部屋から連れ出してくれた。イコがモウモウの籠を抱いて、その後ろから付いてくる。
王宮を出てから、泣いている自分が恥ずかしくなって涙をぬぐった。イコが心配そうに私の顔を覗き込んだ。そんな仕草に、この子に心配かけちゃいけないと思って自分の両足で立った。
「ごめん、びっくりしたよね」
笑顔を無理やり作ってみせると、イコも泣きそうな顔で一生懸命笑った。
「大丈夫ですか?」
支えてくれていたサイスさんが、心配そうに私を見る。
「ごめんなさい。
ラーにあるまじき行動で……」
恥ずかしさのあまり首をすくめると、サイスさんは微笑んだ。
「構いませんよ。泣いて吹っ切れるのならば、そうなさればよい」
まるで他人事のように言った。
……あんたが仲を引き裂いたくせに。
って恨み言が喉まで出かかったけど、やめておいた。
たぶん、サイスさんのせいじゃない。
私がただ人のせいにしたいだけだ。
それから、私たちは無言で歩いた。私は何をしゃべっていいかわからなかったし、イコは話しかけることをためらっているようだったし、サイスさんもイコをどう扱っていいかわからず、私に軽々しく話しかけるのを良しとしないようだった。
時折鳴くモウモウの鳴き声に、私はイコを見つめて微笑みかけるだけだった。




