第四十三話
――何が起きているのか、わからなかった。
その日は神殿で行われる即位の大祭だった。
神殿と約束したのはたった一つ、即位の大祭の日に神殿に戻ること。
約束通り神殿へ行った。
王様に怪しまれないように、みんなと一緒に大祭の観客として。そして控えの間で儀式が始まるのを待っていた時に、神官に呼び出された。
そして神官達に連れて来られたのは、祈りの間の中の一室だった。
他の部屋は出入りが激しいし、礼拝所は今日は一般の巡礼者も入るので、そこはよくないと言われ祈りの間の一室になったらしい。
神官は私をその部屋に通すと、すぐに部屋を出てしまった。どうやら即位の大祭の準備で忙しいらしい。
「神官方が間もなく参ります。それまでは、ここでお待ちを」と侍巫女に言われる。侍巫女は、お茶を準備するために部屋を出てしまった。
一人残された私は、何気なく部屋を見ていた。
すると、出入りした木戸とは違うところに、小さな扉が付いていた。
何だろう?
扉はかすかに開かれている。
あれ?
覗いてみると、人影があった。
やば、誰かいる!
慌てて閉めようとしたけど、物音を立てたらまずいと思い、扉をそのままにして聞こえないところまで下がろうと思った。
ふと歩き出そうと顔を上げたら、部屋の向こうにいるのがウラヌス・ラーだとわかった。
ウラヌス・ラー?
ってことは、ここは……。
謁見の間ってことだ。
では、ウラヌス・ラーと王様が最後の謁見をしているんだ。
朝、王様が説明してくれた。
神子が大神官になる前に、世俗と縁を切るために最後に一人づつ謁見するらしい。ウラヌス・ラーは猿王家の人々とは会わず、王様に謁見の申し込みをしたという事だった。
――そして、ウラヌス・ラーと王様とのやり取りをすべて見てしまった――。
覗いちゃいけない。
そう思って下がろうとしたときに、声が聞こえた。
「あの時……」
眉を顰めたウラヌス・ラーが、王様の胸に抱かれていた。
うそ……。
その場に立ち尽くした。
いつの日か、私を抱き上げた王様のガウンからすごくいい香りがした。甘い花のような香り。
あの香りは……。
王様と、ウラヌス・ラーの思い出の香り……?
そうだ。イゾルだって言ってたじゃない。ウラヌス・ラーの好きな花がニミルダ草だって。
だから、王宮の庭に植えてあるって。
じゃあ、王様はずっと大事にあの香りをつけていたんだ。
ウラヌス・ラーとの思い出を胸に……。
目の前が真っ暗になった。
私……ずっと勘違いしてた。
王様は私の事好きでいてくれていると……。
でも、王様の口からそんな言葉を聞いたことなかったのに。
……王様はずっと、ずっと、ウラヌス・ラーが好きだったの?
そうだ。ラッカの思い出話。
王様はラッカが幼い日の思い出だって言っていた。
ウラヌス・ラーも、ラッカが大好物で、それは幼い日の思い出なんだって、ファン先生が言ってた。
あの日、大事に握りしめたラッカは、ウラヌス・ラーとの思い出だったの?
……全部、全部、王様の思い出は、ウラヌス・ラーに結びついている。
そうだ。
初めから、私の入り込む余地なんてなかったんだ……。
王様は、きっと私の事を笑っていたんだ。
思わせぶりなことして、素直に反応している私を見て、からかっていただけなんだ。
私、それなのに、大事にされてるって勘違いしてた。
ずっと、ずっと……。
なんて、恥ずかしい。思い上がりもいいところだ。
幸せだった思い出が、全部塗りつぶされていく気がした。
「……離せ」
王様の言葉が静かに響いた。
その言葉に、ウラヌス・ラーが泣き声を上げる。
どうして、王様、ウラヌス・ラーが好きだったら、どうして突き放すの!?
立場があるから?
国の禁忌だから?
そんなの、きっと関係ない。
だって、王様は私の時はそんなの頓着せずに後宮に押し込めたじゃない……!
違う、本当は、ウラヌス・ラーのことをそうしたかったんだ。
でも、ウラヌス・ラーは神子になることを選んだ。
だから、王様はあきらめたんだ。
恋を。
ウラヌス・ラーの望みだったから。
お互い、気持ちを隠していただけだったのに……。
本当は、抱きしめてしまいたいくせに!!
胸が、押しつぶされそうだった。
王様は、ウラヌス・ラーを愛していた……。
王様にとって、私は身代わりだったの……?
ウラヌス・ラーと同じ猿人だから?
猿人でも、側に置いておける理由があったから?
――ただ、それだけ。
その場に、座り込んだ。
頭の中が真っ白って、こういうことを言うんだと思った。
もう何も考えたくない。
考えたって、空しくなるだけ……。
しばらくぼうっと座っていた。すると、木戸が開く音がした。
振り返ると、神官が扉の前に立っている。
「いかがいたしましたか?」
その声に、はっと我に返って慌てて首を横に振った。
「すみません、なんでもないです」
服の裾を払って、立ち上がる。急いで机に向かった。
陛下とウラヌス・ラー……。
ずっと、ずっと二人は愛し合っていたんだ。
だから、ウラヌス・ラーは身代わりがほしかったんだ。
ようやく分かった。
ウラヌス・ラーが私を神にしたかったわけを……。
それから、神官達が迎えに来て、これからの話を簡単にしていった。神子の神託の時に、私を神だと宣言すると。
だったら……。
誰も否定できないような神になってやる。
私は神官達に一つお願いをした。
神官達は頷くと、すぐに人を何人かやりに行った。
そして私には、もう礼拝に向かう時間だと告げる。
ウラヌス・カーリが私がいないことにいらいらしていると、教えてくれた神官が苦笑していた。
神官達に促されて礼拝所へ行った。
王様はもう礼拝所に向かっているらしい。
中に入ると、王様の席の横に通された。
私が席に着いたのを合図に、即位の大祭が行われる。
真正面で神官達が列をなし、星々のレリーフが飾られている祭壇の前で聖水、聖火、聖灰を掲げる神官達がウラヌス・ラーが来るのを待っていた。
ウラヌス・ラーが正面の青銅の扉から姿を現すと、まっすぐに祭壇へ向かう。
一段高いところにいる神官たちの手前で、両手を組んで右ひざを折った。
そこに神官たちが錫杖を鳴らす。
「聖なる神より、古よりの印を授ける。
すべては御身を神に委ねよ」
そのセリフとともに聖火、聖灰、聖水の順で額につけていく。
誰も、何も言葉を発せなかった。
青いモザイクタイルで作られている祭壇の前にいるのは、白い衣装の神官たち。銀色の聖火、聖灰、聖水を持ち、一人ずつ跪いているウラヌス・ラーの前に歩み寄る。
右手の錫杖をウラヌス・ラーの頭上でふるい、横にいる神官に渡すと、左手に持っている聖杯から右手で、ウラヌス・ラーの額につけていった。
まるで絵のようだった。
「きれい……」
小さな声で呟いた。
ウラヌス・ラーが持っている錫杖が音を鳴らす。細かい金環が幾重にも重なりあって、それぞれ音を出し、細かい音が響いていく。
神官達が去って、神官が祭壇の周りを囲んで一斉に錫杖を鳴らす。最後の一つの音が止んでから、祭壇を離れる。それが即位の儀式の終わりだった。
たった一人祭壇に残ったウラヌス・ラーが膝を折る。神に向かって頭を下げると、錫杖の音がしゃらしゃらと鳴りだした。
それが、神託が始まる合図だった。
神官達が一斉に錫杖を鳴らす。
その音だけが部屋に響く。
しん――と部屋の中が静まり返った。
屋根のある礼拝所から、ずっと広場まで開け放されていて、広場からもウラヌス・ラーの儀式の様子が見られるようになっていた。広場には礼拝所に入れない市民が詰めかけ、皆神に祈りを捧げていた。
ウラヌス・ラーが右手を高く掲げて、神の声を聞くポーズをとる。
しばらくしてから、ウラヌス・ラーが床を一つ、錫杖で鳴らした。
こーんと響く音と、錫杖の音が追いかけるようにして周囲に響いていく。
「――災いが
――災いが来る。赤い星が降り注ぎ、大地がきしみ、空が割れる」
ウラヌス・ラーが良く通る声で話し始めた。
目は閉じたまま、何かを思いはせるように、見上げるように祈るように。
これが、神託なんだ。
「――次第に、次第に、星は変化を起こすだろう。
その時、人々の上に大いなる厄災が降り注ぐ。
――それを防ぐ術を、我らは持たぬ――」
神子の言葉の継ぎ目に、皆静まり返ってる。
誰も、何も言えなかった。
「この星に大きな厄災が現れるとき、ケペリ・ラーがこの地に足を下ろされる。
それは、この星の定め――!!」
こおおーんと、ウラヌス・ラーが錫杖を響かせた。
「ケペリ・ラーよ!!
われらを導きたまえ。
その最後の時まで、我らを――
全てあなた様の御意志に従いましょう――!
それこそが、創世の頃よりの星の運命――!!」
こーんと再び錫杖が鳴る。そして、金環が揺れる。
神官達が一斉に錫杖を掲げて鳴らし始めた。シャンシャンと錫杖の音が響く。音が十分響いた後で皆が一斉に錫杖を鳴らすのをやめた。
音は壁に吸い込まれるように、消えていった。
しんと静まり返る広間の中で、ウラヌス・ラーがまっすぐに歩いてきた。
私のところへ。
ウラヌス・ラーが跪く。
「われらが神よ、我々ケペリの民は、すべてあなた様に従いましょうぞ!」
顔を上げて、私を見据えたウラヌス・ラーは、私の左手を取ると頭上に頂いた。
それを合図に、神官団が次々に跪いた。
それはまるで水面に波紋が広がるように、静かに平伏していった。
その姿に、誰も口を開くことができなかった。
まるで、厳かな儀式を見ているようで、わずかでも声を上げたら、その場が崩れてしまうかのように思えた。
「あなた様こそが、我々の神でございます。
その黒い瞳、黒い髪。
この星を統べる神、ケペリ・ラーは夜の化身であり、この世でただ一人、その色を持つお方。
どうか我々を、導き給え……」
ウラヌス・ラーがまっすぐに私を見つめ、私は黙ってうなずいた。
それを合図に、民に交じった神官の一人が「ケペリ・ラー!!」と叫んだ。
これは、仕込み。
神殿に前もって、サクラを仕込むように指示した。閉鎖された空間になると、人は扇動されやすい。サクラが私をケペリだと認める発言をすれば、市民たちはこの神託の雰囲気に呑まれるはずだ。
そのサクラの叫び声が呼び水となり、みんな触発されるように次々にケペリ・ラーの名前を叫び始めた。
「ラー! ケペリ・ラー!」
「ケペリ・ラー、万歳!」
「ケペリ・ラー、万歳!」
そんな声が口々に飛んで、大きなうねりとなって広間が湧き上がった。
隣に座っていた王様が、がたんと大きな音を立てて席を立った。
「これは! これは、なんの茶番だ!!」
怒りで、王様の顔が赤くなっている。
「トゥヤ!! お前は、お前は一体何を!」
王様は私の腕を掴もうとする。
すると、神官団が前に立ちふさがる。
「申し訳ありません、ウラヌス・カーリよ。
この方は、神託で定められた聖なるお方。
ご無体は……」
正神官がウラヌス・カーリに向かって礼を取り、頭を下げる。
「聖なるお方!?
何を言っている!!
これは、私の妃だ!!
トゥヤだ――!!」
王様が叫んだ。
でも、その叫び声は民の神を呼ぶ声にかき消された。
神官達が私を神官団の方に来るように促した。私はただそれに倣い、そちらに歩いていく。
「トゥヤ! 戻ってこい!」
まっすぐに王様がこちらを見る。
私は黙って首を横に振る。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい……。
その言葉だけを繰り返して、目を閉じた。
私は、あなたの側にはいられない……。
だから、私が解放してあげます。
ウラヌス・ラーを。
大神官という軛から……。
それが身代わり神の私の使命だから……。




