王様の後悔
夕方、執務室で書類に目を通していると、にわかに足元が揺れた。
何だ、これは?
重い石が擦れあう鈍い音が聞こえる。棚に納められている書類を見ると、すぐに崩れそうというわけではないので、そのまま周囲を見回した。
ランプが揺れている。カーテンも少し、はまっている硝子もカタカタと揺れていた。
すぐにクアンが入室してくる。
「クアン、なんだ、これは?」
クアンに尋ねるも、クアンもわからないと真っ青になって首を横に振る。
まるで大地が揺れているようだった。
揺れはそれほど長くなく、足元を小刻みに揺らして鎮まった。
「クアン、龍騎隊たちに王宮の安全を確認するように伝えろ。後宮監督官に後宮内の状況を報告させろ。それとだ、トゥヤの――」
言いかけて、口を閉じた。彼女の無事を確認するように、と言おうとして気が付いた。
そうだ。彼女はもういなかったのだ。
よりによって、こんなことが起こる日に出て行かなくてもいいものを。
本当に気が利かない娘だ。
それが八つ当たり以外の何者でもないことはもちろん分かっている。
「トゥヤ様は、まだお戻りではないようですが……」
クアンがこちらを覗くように言う。
「わかっている。よい」
片手を振ってそれだけ言うと、クアンは軽く一礼する。
「猿騎兵たちには城下の安全を確認するように伝え、被害状況の報告を頼む。被害があれば、復旧のために人手を割いて構わない。猿騎兵長にそれだけ伝えてくれ」
「わかりました」
「それとだ。フィナのところへ行く」
クアンに一言告げる。
「御意に」
クアンは一礼すると、すぐに退室した。
しばらくそのまま書類に目を通している。
すると、扉を叩く音がして返事をする。入ってきたのは、龍騎隊長だった。
「陛下、王宮内に被害はありませんでした」
敬礼して報告する。
「ご苦労。猿騎兵に城下の見回りを頼んである。合流して、城下の安全を確認するように。被害があれば、報告しろ」
「は、畏まりました」
それだけ言うと、規範に則った見事な敬礼をして、また部屋を出て行った。その後に来たのは、後宮監督官だった。後宮監督官の言によると、後宮も無事だったらしい。特に被害らしい被害はないとのことだった。
王宮と後宮に関しては、何も心配していない。この程度の足元の揺らぎでは、宮がびくともしないことは知っている。
しかし、城下はそうはいかない。人口が増えるたびに建てられた建物は、複雑に入り組んでおり、使用している石も様々だ。一つが崩れると、あっという間に崩壊する。
特に下町と呼ばれる王宮から離れた地区は、崩壊する危険が大きい。
猿騎兵の報告は時間がかかった。この広大な王都をくまなく見回るのは、どれだけ人手を割いても骨が折れることだろう。
報告が来るまでに、後宮のフィナのところへ向かった。
「陛下!」
クアンに先導させて後宮に行くと、妃候補たちが先ほどの揺れで騒がしかった。
クアンが先触れを出していたので、フィナの部屋の侍女は丁寧に来訪に対する挨拶をした。それを聞き終わってから部屋の中へ通された。
「フィナ姫の無事を確認したい」
これでも正妃候補だ。まして一度部屋に訪れてしまったので、丁重に扱わなければならない。
部屋に通されると、フィナ姫がドレスの裾をつまんで、一礼した。
「突然すまない」
「いいえ、陛下。先ほどの揺れ、恐ろしかったのでお越しいただけてとても嬉しく思っております。できますことならば、一夜を明かし、私の不安を取り除いていただければ、と思っております……」
フィナが顔を真っ赤にして、消え入りそうな声を出す。
椅子をすすめられ、そこに座る。
「いや、ありがたい申し出だが、済まない。これから城下の視察に向かわなければならない」
「陛下自らでございますか!?」
驚いたようなフィナの声に、私は頷く。
「そのようなこと、陛下が自ら向かわれなくとも、部下に命じればよろしいのではございませんか?」
所詮お嬢様育ちのフィナだ。人を使うことは慣れていても、自ら何かすることはない。
「この王都に住まう者すべては、余の臣民だ。余が自ら出向かわずにどうしようか」
ふっと笑うと、フィナが赤い頬をますます赤くさせる。
「さすが、見識の深い陛下ですこと。私は恥ずかしゅうございます」
すぐに反省するところは、いいところだ。育ちのいい娘なのだというのが分かる。
「はは。役割が違うゆえ、仕方あるまい。気に病むことはない」
笑顔を返すと、フィナはほっとしたようにはにかんだ笑顔を向けた。
「早く、陛下の隣に立ちたいと私は願っております」
正妃になりたい――そう言っているフィナはなんて素直なのだろう。
正妃になるために育てられ、それを疑わない。そのために国一番と言われる教養を身につけている。一体どんな教養なのだか……。あからさますぎるだろう。
「はは。検討しよう」
そういうと、立ち上がった。
フィナの手のひらに口づけを落とし、そのまま部屋を後にする。
クアンが後に付いてくる。
「フィナ姫とは、なかなかお似合いのご様子ですね」
満足そうに言うクアンに、ばかばかしいと吐き捨ているように言った。
「あんな茶番を毎日続けたら、肩が凝って仕方あるまい」
会話も作り事、笑顔も作り事だ。面倒なことこの上ない。
余はこの茶番を毎日続ける自信はない。
つまらぬ。
あんな女と毎日過ごしたいとは、思わん。
「このまま城下へ向かうぞ」
クアンに命じると、厩へ向かった。護衛四人とクアンと馬で城下へ向かう。
幸い城下は目立った被害はなかった。一応下町まで足を運ぼうとすると、護衛達に止められた。あちらは治安が良くないという。
だからこそ、実情をこの目で確かめておく必要がある。徑民政策には頭を悩ませている。元の領地に引き渡せれば簡単だが、徑民たちがどこ出身かを把握するのはかなり骨の折れる作業だった。
護衛とクアンを説き伏せて下町へ向かった。下町はにわかに騒がしかった。いや、騒がしいのは町中そうだったのだが、スラムの方で家が崩れ、人が下敷きになっているとのことだった。
「クアン、行くぞ」
そちらへ馬へ向ける。下町の中でも特に貧しいものが住まう地区だった。
「陛下、このようなところへ足を向けなくても……」
クアンが顔を顰める。
匂いがとにかくひどかった。饐えたような匂いがずっと漂っている。
「けが人が出たのか?」
「幸い、けが人は徑民のみでございます。徑民がテントを張っていた石造りの貧しい家が倒れましたせいで、徑民たちには被害が出たそうですが、市民には怪我がありません」
「では徑民には、被害があったのだな?」
「そのようですね」
とりあえず、怪我をした徑民の様子を見に行く。
徑民たちは皆、けがの手当てを終えているようだった。それでも、完璧とは言い難く、特に寝かされている男性に至っては簡単な手当しかされていないらしい。
「陛下、徑民です」
クアンに窘められた。徑民に施してやる必要はないということだ。
「パルムールに住まうもの全てが世の臣民だ。怪我の様子を見てやれ」
クアンに命じると、クアンは護衛の一人にけがの様子を見るように言った。
「しかし、すでに治療されているようだな」
徑民たちの様子を見て言うと、添え木をしている男が口を開いた。
「さっき、神殿から来た女の人がね、手当てをしてくださったんですよ。男の人は帰っちゃったんですけどね」
神殿から来た女?
それに引っかかりを覚える。
「簡単なことしかできなくてごめんなさいって言って帰って行ったんだが、大丈夫だったのか。いえね、私らの怪我を手当てするために、上物の上着を脱いで行っちゃったんですよ。白い下着の上にマントだけかけてねえ。
さっき急いで帰っちゃったんだけどもさ」
徑民は、だんだんと口調が荒くなる。これがいつもの口調なのだろう。
クアンは眉を顰めていたが、余は別段気にはならなかった。
「簡単なことと言っていますが、骨折の手当ては完璧です。寝ている男性は重傷のようですので、これは医者でなければ手当はできないでしょう。他の人たちも、それ以上の手当ては必要ないと思いますしね」
衛兵が手当された傷の様子を見て口笛を吹く。
「重症のものは、城の侍医を差し向けてやれ」
「徑民にですか!?」
クアンが驚く。その言葉は黙殺して、周囲を見渡した。
寝ている男のかけている布を見ると、それは見覚えのあるものだった。
モスグリーンの毛織物で、金糸の刺繍を襟元に施している。手当てに使ったのだろう、少し裂けているが、寝ている男性はそんな布でも大事に体にかけている。
やはり……。
これは、トゥヤが着ていたものだ。
この色味を好んでよく着ていたのを覚えている。
それにだ。
こんなことをする女など、トゥヤの他にいるわけがない。
スラムまでやってきて、まして徑民のけが人の手当てなど、誰が好き好んでやるものか。そんなお人よしなのは、トゥヤ位のものだろう。
……すると。
あのバカ!!
想像して、頭が痛くなった。
上着を脱いで、下着とマントで帰ったというのは、トゥヤのことか……。
何を考えているんだ、あの娘は!!
ちっと舌打ちをする。
「クアン、護衛を独り、神殿へ向かう女につけさせろ。絶対ばれないようにだ」
「は?」
「トゥヤだ。トゥヤがそんな恰好で帰っているんだ。
全くあいつは、何を考えているんだ! 自分の身の安全も考えず、こんな下町のしかもスラムに足を延ばして。しかも、こんな夜中に上着も着ずに街中をうろうろしているんだぞ! 不逞の輩に目を付けられないわけがあるまい!!
全く余の妃だという自覚が――」
言いかけて、また口を閉じた。
そうだ。トゥヤはもう妾妃ではない。いや、位は下げてはいないのだから表向きは妾妃なのだが、私が望む、望まないにかかわらず、あれはもう、後宮へは戻らないだろう。
余がそのように仕向けたのだから。
昨日のことを思い出す。
余が、すがるトゥヤの腕を振り払ったのだ。
あの黒い瞳が見開かれ悲しみに縁どられる様子を忘れるわけがない。
あのまま、抱きしめてしまいたかった。
すべてを余のものにして、この腕から離さなかったら、あれは余の元へ留まるのだろうか。
嫌われることなど構わない。側にいれば、それだけでいい。
鳥の羽を毟って、鳥かごに閉じ込めるように自分のものにしてしまおうと、そう思った。
しかし、見下ろすトゥヤは恐怖に身を縮めていた。
その黒い瞳に映る余の顔は、欲望の塊だった。
トゥヤは涙を流し、震えていた。歯の根を合わせて、震えながら、じっと耐えていた。
そうだ、トゥヤは余を恐れていたのだ。
そして余は、愕然とした。
そんな顔で、見るな――。
――余は、醜い。
あれが泣いている姿を見て、それ以上は出来なかった……。
「陛下、すぐに――」
クアンに声をかけれて、我に返り顔を上げた。
「トゥヤ様の元へ向かわれますか?」
尋ねられて、躊躇する。
出来ることならば今すぐにトゥヤの元へ駆けて行きたい。
しかし、そんなことはできない。
あれを傷つけてまで、余の側に置いておくわけにはいかない。
余が何かをすることで、あれを傷つけたくない。
ならばいっそ嫌われていた方が、マシだ。
「いや、よい」
片手を振って、必要ないとジェスチャーする。クアンは頷いて護衛兵に何事かを告げた。
護衛兵はすぐに駆け出して、街道を走っていった。護衛兵が神殿まで送るのなら心配ない。王宮にいる衛兵たちは特に腕の立つ者しかなれない。それに敵う者は王都にはいないだろう。
そしてトゥヤが神殿に保護されているのなら、安全だ。
あんなに怯えさせるくらいなら私の側にいない方が良いのだ。
……そなたが笑っていられるのなら、余はそれを見ているだけで十分だ……。




