第二十一話
「陛下、このままでは公爵は納得いたしませんよ。公爵はただでさえ、サージャ市を抑えられ、気が立っているのですから」
執務室に訪れて、椅子に腰かけて話し始めたのは、革新派のシン伯爵だった。今、議会は革新派と保守派に分かれている。
「だからと言って、鋳造権を国家で掌握しなければ、国家制度の存続にかかわるのだぞ」
ため息交じりに書類から顔を上げ、伯爵に告げると、「そんな、大げさな」とシン伯爵は苦笑する。
まただ。わからないのなら、無意味な忠告などいらん。
都市を独立させたにもかかわらず、貨幣の鋳造権を各々の地方領主に任せたままにするのなら、都市の利益は領主が握ったままになる。
このケペル国が誕生して二千年になる。この二千年の間に土地は開墾され、人々は着実に豊かになっている。土地の開墾、貿易を経て、商業が活発になりつつある今、そこを押さえておかなければ、国が時代に取り残されてしまう。
それを説明しても、革新派と呼ばれる政務官たちですら理解していない。
「陛下、今のままではライ公爵は分が悪すぎますでしょう。領内の一番の収益地を取り上げられ、そこの鋳造権も放棄せねばならない。財務大臣の肩書きだけではもう、納得いたしませんよ」
文官の中で一番位が高いのが、宰相だ。この宰相の位についており、この見返りに財務大臣の肩書きもやろうと交渉しているのだが、どうやら、それだけでは納得できないようだ。
「何なら納得するというのだ?」
苦笑しながら訪ねると、シン伯爵はコホンとひとつ咳ばらいをした。
この男は有能だ。権謀術数においては。
しかし、日和見主義だ。いや、日和見主義だからか。
この男がこちらについているということは、まだ王権の方が勝っているという事実だろう。
「ライ家の姫君の――御即位かと。公爵がここ最近執着しているのは、娘御のご結婚ですからな」
「それはならんと言ったであろう。正妃候補として形だけ後宮に収めることは納得した。しかし、正妃にあげてしまっては、ライ家の力はますます増してしまう。ライ家の力が実質骨抜きになった後なら、誰が正妃になっても構わない。しかし、今はだめだ」
「何をおっしゃいます、すでに公爵は宰相の地位についているのですよ」
シン伯爵が笑う。
本当に、先の見えてない男だ。
「いいか? 力も大義名分も与えたら、ライ家の当主は国を乗っ取るぞ。あれは野心家だ」
「またまた、ご冗談を。ケペル開闢以来、ラーの定めた王がその御位に就く定め。それを破りし者が現れるわけありますまい」
シン伯爵はさもおかしそうに言う。
この男は本当におめでたい。革新派を名乗るよりも保守派の方がよほど向いているのではないだろうか。
この世の中には、神も慣習も法も掟も物ともしない人間が現れることがある。そんな人間が力を手中にしたら、当然己の力を試すだろう。
この男には、そうした人間がいるということも想像がつかないのだろう。
シン伯爵と意見を交わしていると、トントンと扉がノックされた。
「陛下」
クアンの声が聞こえる。
「執務中だ。なんだ?」
「……
妾妃殿下がお見えでございます」
クアンの言葉に、おやと顔を上げる。トゥヤが、後宮を出て執務室に尋ねてきたのは初めてだ。
「おお、ご妾妃様がですか!?」
シン伯爵が大仰に驚いてみせる。
後宮は閉ざされた宮ではない。王の家族が生活する部屋だから出入りは厳しく管理されているが、行き来を禁じられているわけではない。しかし、妃が王宮にある施政の場まで出入りすることは今までの慣例上では珍しかった。
「王ご執心の麗しの妾妃殿下にぜひまたご拝謁致したいものですな」
にこにこと愛想笑いをするシン伯爵に、片手をあげてみせる。
「話の途中だがすまない。妾妃に聞かせる話ではないのでな」
そういうと、書類に目を落とした。
「――トゥヤ様には、政務中である旨をお伝えいたしましょうか?」
扉の外から、クアンが呼び掛ける。
「よい。話は終わった。通せ」
そう申し付けると、短くクアンの返事が聞こえる。
クアンが扉を開くと、殺風景な茶色い部屋に、まるで花が咲いたようにトゥヤが現れた。
そっとクアンにシン伯爵を返すように促す。伯爵は名残惜しそうにトゥヤの姿を見ている。
トゥヤは伯爵と目が合うと、小さく微笑んで、ドレスの裾を軽く摘まむ、女性流の挨拶をして見せた。それだけで、伯爵は満足したように、笑顔になると足取りも軽く執務室を出て行った。
「どうした? 執務室に来るとは。何用だ?」
今までなかったことに驚いたが、何事もないように問いかける。
すると、曇った表情をしてこちらを見た。
この娘は確かに突拍子もないことをする。こちらの常識を知らないので仕方あるまいが、それでも時々驚かされる。
しかし、突拍子もなく非常識であるが、わりと従順ではあった。後宮から逃げ出そうとするでもなく、部屋から出せというわけでもなく、戸惑いながらもこの状況を受け入れていた。
だからこそ、この娘に興味が湧いたのだ。
「あの、お願いがあります」
トゥヤからの願いとは、これもまた珍しい。
この娘は無欲だった。それもまた不思議なことだ。
「何だ? 何か欲しいものでもあったか?」
今日も確か、王都に降りていたはずだ。
この頃は王都のスラムで子ども達に食料を分け与えているらしい。護衛兵から報告を聞いていたし、賄い方からも侍従に妾妃がモウモウのエサを口実に食料をもらいに来ていると報告があったらしい。
どちらも好きにさせろと伝えておいたのだが。
妾妃は小さく首を横に振った。
「……あの、神殿へ行ってもいいですか?」
「神殿? 何しに行くのだ?」
嫌な予感がした。
トゥヤを後宮に連れてきてから、神殿からは再三の引き渡し要求が来ている。それだけではなく、武官であるテズ家のサイス竜騎兵長からも個人的に面会を申し込まれていた。
サイス竜騎兵長がトゥヤを拾ったと聞いている。
以前のパーティでもトゥヤが個人的に話をしていた。
二人は顔見知りではあるようだが、それほどトゥヤに執着するのはなぜだろうか。
もしや、サイスと王都で会ったのではないだろうか。
だから、神殿へ行くというのか?
「私、会いたい人がいるんです」
思いつめたトゥヤの眼差しが、私の視線とぶつかる。
突然、心臓を鷲掴みにされたような気がした。
「会いたい人?」
トゥヤに?
この世界で彼女が知っているのは、この後宮の中ぐらいだ。それ以外に知り合いなど、サイス位なものだろう。やはり、あの男か?
「はい。今日、神殿の人に会ったんです。その人、私の事を知っていたんです」
トゥヤが両手を重ねている。
神殿に連れ去られたときに、トゥヤを見た誰かだろうか。
もしや、私の他にこの娘を欲しいという者がいるとでもいうのだろか。
「――そなたをか?」
「ええ――はい。
私がニホンという国から来たことも知っていたの。そして、私の事を『蛇』って言ったわ。私が、この国の人が知らないことを教えたから、そんなことをするのは『蛇』だって。蛇は人々を堕落させる。だから、知恵を授けてはならないって言われたの。
私、その時初めてきちんと物を知ることができたの。その人なら、ここがどこで、私がどこからどうやってここに来て、元の世界に帰れる方法を教えてくれると思うの。だから、お願い……」
眉根にしわを寄せて、トゥヤが懸命に説明する。
ここがどこか?
トゥヤがどうやってきたか?
元の世界に帰る方法……?
そんなもの――そんなもの、必要ない。
「お前は異国の者であろう?
どうやって? 泉が運んできた。
元の世界……? そんなものは必要がない!」
「必要ないって……、私、帰りたい……帰る方法を知りたい」
絞るような細い声だった。
帰りたい! 帰りたいだと!!
頭に血が上ったようだった。不安げにこちらを見つめるトゥヤの腕を掴む。
「そなたは、帰りたいのか!? 元の国へ?」
「そりゃ、帰れるものなら、帰りたい……」
トゥヤの伏せた目頭に、見る見るうちに涙が溢れる。
「余の元が嫌だというのか!! このウラヌス・カーリである余が嫌だと!?」
掴んだ腕を、そのまま揺さぶる。
トゥヤは眉根をしかめたまま、首を横に振った。
「あなたが、嫌なわけではないの! それだけは、違うわ……」
目を伏せたトゥヤを、たまらずに抱きしめた。
「なぜだ。
なぜ、余が嫌なわけではないのに、帰りたいなどという。
嫌でないのなら、ここにいればいいではないか!!」
腕の中で、小さなトゥヤは震えている。
「……ここは、私の知らないことだらけだから。
不安で、不安で仕方がない。
今日は無事に一日が過ぎた、明日も無事に一日過ごせるだろうか。
そんなことばっかり考えながら生きるのは、苦しいから……」
トゥヤが私を見つめる。
……不安?
そうだ。トゥヤは泣いていた。
小さく震えていた。
始めは小さく震えるだけの少女だから、手元に置こうと思った。
ただ、それだけだ。
役に立つのなら、それでいい。
立たぬのなら、放っておけばよい。
そう思っていた。
それなのに――。
どうやったら、この娘を手元に置いておける?
羽をむしらずに、足を切らずに、余の隣で微笑んでいられるようにするには、どうすればいい!!
「そなたが望むのなら、望むだけの宝石を贈ろう。望むだけの宮殿を立てよう。望むだけの地位を与えよう。何なりとすればよい。何もしなくてもよい。後宮の奥で、好きなことだけをして余の訪れるのを待っていればよい!」
鳥をかごに入れるように、犬を繋ぐように、猫を出さぬように、トゥヤを閉じ込めてしまえば、全て済むのだろうか。
いつの間にか、こんなにも隣にいてほしいと思っている。
夜毎の物語も、彼女の笑い声も、いつの間にか心地よいものとなった。
この娘の知恵が役に立てば……。
この娘が興味を持つことはなんであろうか。
そんなふうにトゥヤを知れば知るほど、彼女のことが心の中で大きな位置を占めた。
日々の政務で疲れた頭が、トゥヤと話していると解れていった。
そうだ。余は孤独だった。たくさんの重臣たちに囲まれていたが、王である自分を誰も理解してくれなかった。
余が目指す国の在り方。
豊かな実りのケペリ。
この世のすべてを集めた充足した国を作りたいと、考えていた。
しかし、誰もかれも、己のことばかり。
そんな毎日に嫌気がさしていたその時に、ようやく手に入れた。
何のしがらみもなく、まっすぐと私を見据えるその瞳。
奢ることもなく、阿ることもない対等に私に挑んでくるその眼差し。
そのまっすぐな瞳を見るのが、心地よかった。
そんなことに、ようやく気が付くなど――!
「いらない! そんなもの、ほしくないの。いらない!!」
激しく、首を横に振る。
そうだ、この娘には欲はない。
ならば、どうすればいい!!
いや、たった一つの方法が、ある……。
しかし、そんなことをすればトゥヤの心は永遠に手に入らない。
「余は、お前を手に入れる方法を知っている。
どんなにお前を傷つけても、力づくでここにとどめておく方法を知っている!
そうしてでも、余は、そなたにいてほしいと思っている……!」
トゥヤの腰に腕を回す。
トゥヤの顔色がはっと変わった。
「……やめて」
恐怖で顔が青ざめている。
じりじりと間合いを詰めていって、トゥヤが机のヘリに腰をぶつけた。
その拍子にざっと音を立てて、机の上の書類が床に散らばった。
そちらにトゥヤが気を取られた瞬間に両手首を掴んだ。
「あ!!」
がたんと音を立てて、トゥヤがバランスを崩す。後ろに倒れたのをいいことに、そのまま両手首を掴んで机にその体を押し倒した。
トゥヤは目を見開いたまま余を見つめている。驚愕していた。
「や! やだ!」
小さく首を横に振るトゥヤを見下ろす。
……いつの間に……。
自問する。
いつの間にか、こんなにも手放せなくなっている。
トゥヤの意思はお構いなく。
それでも、それでも――
もう、手放したくはない――。
固く目を閉じた。
同じ失敗は、もうしない。
愛する者を側に置きたいと思うことに、何をためらうことがある――!
再び目を開けて、腕の中の小鳥を見つめる。
震える、小さな黒い鳥。
この小さな小鳥が私のそばにいるためならば、その羽をむしってしまえばいい……。




